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新卒カードを使わなかった元ひきこもりが大学に入ることの意味を考える


ひきこもっていた時に姉が亡くなり、姉の子たちと同居を始めてから、12年経ちました。

気づけば上の子は大学生に、下の子も今年高校を卒業します。

そして今、下の子の進学問題が浮上する中で元ひきこもりとして思うことがあったので、今回はそれを書きます。



さて、

タイトルの通り、私は就活を一切しないまま大学を卒業し、その後5年間ひきこもっていました。

その理由は、社会に出て行くことに異様な恐怖と不安を抱いていたからです。

大学では友達ができずぼっちでサークルにも入りませんでしたが、留学をしたりバイトをしたり他大学のサークルに参加したりと、自分なりに社会に参加していたつもりでした。

しかし当時私は対人恐怖症や不安障害などの症状に襲われ、まともに就職活動できる状態ではありませんでした。


それまでフラフラ遊んでいた学生も、就活生になるとみんなスーツを身に纏い面接に挑んでいく。

その姿が、さながら工場で大量生産される加工品(無機質で無個性)に見えてしまっていました。

自分を殺して“加工品”になるくらいなら、ひきこもっていた方がいい。

当時、私はそう思っていました。


今振り返ると、私にとっては

大学に入る=自分が普通だと証明する

という意味合いが強かったように思います。

大学では好きな勉強もありましたが(英語や外国語、異文化、美術など)、特に勉強したい分野はこれといってなく、

“まわりが進学するからなんとなく自分も進学する”

という動機しかありませんでした。

もっと言えば、姉が高校中退だったこともあり、

“自分はきちんと大学まで行って両親を安心させたい”

という責任感のようなものが、ぼっち大学生だった自分の唯一の拠り所となっていました。


大卒という肩書は、たしかに社会に出るときに役に立ちます。

資格取得の際に、必須条件となることもあります。

私自身、5年のブランクがあっても社会に復帰できたのは、大卒という肩書があったからだと思っています。

大卒ではないことで否応なしに足切りに遭ってしまいチャンスを潰されてしまうくらいなら、どこでもいいから大学に入っておいた方がいい。

そういった考えもあるかもしれませんが、私自身が思うのは


大学ってそんな行く意味ある??


ということです。


大学進学は義務教育ではないので、どうしてもビジネス的な側面が強くなります。

塾や学校(特に私立)や予備校などありますが、結局は教育費というのは“保護者の買い物”でしかありません。

受験は18、19歳という多感な時期の自己肯定感やアイデンティティと深く結びつく重大なライフイベントですが、結局は保護者による子どもへの先行投資というビジネスでしかないのです。

所詮はお金を払うことによって、子どもを大学に行かせるために受験科目の知識を頭に詰め込む機会を買っているだけなのです。

そこに、子どもの主体的な意思は関係ありません。

学力以外の子どものいい所を評価したり、個性を尊重するような姿勢は皆無です。

そもそも、高校卒業時のライフコースの選択肢が

  • 大学へ行く

  • 大学進学を目指して予備校に通う

  • 働く

しかありません。

もちろんそれ以外にもあるのかもしれませんが、主流な選択肢としてはこの3つに限られているように感じます。


大卒と高卒では、求人数や年収でどうしても差が出てしまいます。

わが子に苦労させたくない。だったら無理をしてでも大学に入れさせたい。

そういった心理も理解できますが、そこまでして大学に行かせる必要があるのだろうかと、私は疑問に感じてしまいます。

子どもへの投資は、お金だけではありません。

日々ポジティブな言葉をかけ、子どもの持つ純粋さを愛し育んであげること。

なにより、親自身が自分の人生を楽しむ姿を見せることで、子どもの成長によい影響を与えることができると、私は考えています。

いたずらに子どもにお金をかけても、必ずしもそれが返ってくるわけではありません。

大学に進学できたとしても、学べることははっきり言ってたかが知れています。(もちろん一概には言えませんが)

今現在、上の子は大学に進学し通っていますが、なんだかなぁと思うような講師の話をよく聞きます。

私自身の大学時代を振り返っても、授業料さえ徴収できればいいのかなと思ってしまうような態度の教授や講師の方がいました。



そもそも、大学に行くか行かないか以外に選択肢がないことに、元ひきこもりとしてどうしても疑問に思ってしまいます。

18、19歳の子に、自分の将来を決めろと言われても難しいものがあります。

学校で判定されるのは学力(もしくは運動能力)だけ。まだどんな可能性が本人の中に眠っているのか、まったくの未知数なのです。

学力だけで子どもを評価するのは、あまりにも理不尽で乱暴な話なのです。

早いうちから学力以外の評価基準をもっと設けて、子どもに自信をつけさせてあげる必要があるのです。


勉強もしくは運動でパッとしない学生が落ちこぼれていく現状に、なんとも言えない歯がゆさを感じてしまいます。

現在の制度では、私たちは持たなくてもいいコンプレックスを抱えて生きていかなければなりません。

学力や運動能力は、ものさしの一つにすぎません。

さらに言ってしまえば、社会に出たら学力や運動能力はそれほど役には立ちません。

むしろそれ以外の能力(協調性や柔軟性など)の方がよっぽど必要とされます。

問題なのは、学力が絶大であるかのように思わせ、さらにそのために親にお金をかけさせ、しかもそれが教育格差を助長しているような今の教育システムだと感じます。



選択肢が狭いのです。

大学へ進学しストレートで就職することだけが正義ではないのです。

例えば、日本の大学休学率は他国に比べて圧倒的に少ないと言われています。

日本では新卒カードの言葉があるように、年齢主義が先行するあまりに一般的な道から外れることが邪道となっている現状があります。

この風潮は、SNSの発達で個人の発信能力が強まり、昔に比べてチャンスに恵まれている時代の流れと逆行しているように思います。



小学校から大学まで進んだ後、新卒として働きだせる人の割合は、いったいどれだけいるのでしょうか。

不登校、高校中退、大学中退、大学を卒業しても、私のように新卒カードを一切使わず卒業するなどして、一般的なキャリアの断絶を経験した人だって一定数いるはずです。

また、脱落しなかったとしても、大学卒業後に奨学金の返済に苦しめられる人もいます。

もっと言えば、新卒で就職できたとしても、一年も満たずに退職してしまう人もいます。

その人たちは、いったいどこにたどりつくのでしょうか。

どうやって、自分の強みに気づいていけるのでしょうか。


何も考えないでいると、ただ自分のお金と時間だけが搾取されてしまいます。

ひどいと、心身の体調を崩すまで追い詰められてしまいます。

社会が提示してくるのは、“○○すべき”といった昔から続く固定観念にすぎません。

それを何も考えずに鵜呑みにして自分のアイデンティティとして取り込んでしまうと、気がついたら取り返しのつかない事態に陥ってしまいます。

そもそも、子どもは劣っているという考えがナンセンスなのです。

日本の教育として、

“子どもは劣っているから知識をつけさせて利口にしないといけない”

“考えが未熟だから自律性を教え込まないといけない”

という風潮があるように感じます。

たしかに、子どもは残酷な面があります。他者への配慮や思いやりに欠ける面もあります。

しかし、子どもはもともと賢い・・のです。

子どもは大人を見ています。

大人の薄っぺらい考えはすぐに見抜きます。

この人は本当に自分のことを考えて言ってくれているのか、そうではないのか。すぐに見抜くのです。

つまり、本当に子どもにとって必要なのは学力ではなく、無限の可能性を示してくれる大人のメンターや選択肢だと私は感じます。



女装家の肉乃小路ニクヨさんがある動画で、

自分の人生に対して「自分が人生の経営者である」っていう考えは、みんな持ったほうがいい

【年をとっても輝く】見た目・才能の衰えをどう乗り越える?「自分の幸せだけ」にお金は使ってはいけない?湯山玲子×肉乃小路ニクヨがガチ対談より

ということを話していて、すごく腑に落ちたことがありました。

今の日本の教育は、それとは真逆、つまり、

子どもを無能とみなし主体性を奪うことで、結果的に自分で考える機会を取り上げているように思います。(一概には言えませんが)

親や教師の言う通りにしていても、自分の幸せはつかみ取れません。

学校は学力しか評価してくれませんし、すべての親が子どもにとってよいメンターになれるわけでもありません。

日々の世話をするだけで精一杯の家庭もあります。

つまり、自分の強みは自分で探さないといけないのです。

もっと言うと、自分で探す力があればまだいいですが、いろいろなことが原因でその機会すら奪われてしまう人もいます。


大事なことは、自分の未来は自分で切り開くと覚悟を持つこと。

自分の未来が自由に選べる代わりに、その責任もきちんと引き受けていくということ。

自分の未来がどうなっても、親や教育機関のせいにするのではなく、“自分が自分の人生の経営者”という意識を持って臨んでいくということ。


今の日本社会は

『みんなと同じ道をたどることが正義』

といったメッセージしか送ってきません。

それをそのまま取り込んでしまうと、視野が狭くなってしまい、なにより自己否定が強まり自分のことが嫌いになってしまいます。

私自身、30代半ばにしてこの呪い・・ともいえる固定観念から、自分をやっと解放することが出来たように思います。

自分を卑下する必要はありません。

勉強ができなくても、運動ができなくても、一人ひとりに必ず光るものが存在しています。




最近見た映画に、こんなセリフがありました。長いですがとてもいいセリフなので、引用します。

For what it's worth: it's never too late or, in my case, too early to be whoever you want to be. There's no time limit, stop whenever you want. You can change or stay the same, there are no rules to this thing. We can make the best or the worst of it. I hope you make the best of it. And I hope you see things that startle you. I hope you feel things you never felt before. I hope you meet people with a different point of view. I hope you live a life you're proud of. If you find that you're not, I hope you have the strength to start all over again.

映画『ベンジャミン・バトン』(2008年)より

こちらは、年を取るごとに若返るという特異体質で生まれたベンジャミン・バトンが娘に当てた手紙の一節です。

自分なりに簡単に意訳したものがこちら。

なりたい自分になるのに、遅すぎるということはないんだよ。
タイムリミットなんていうものはないんだ。
立ち止まりたい時に立ち止まればいい。
変わりたいと思っても変わりたくないと思っても、そのどちらでもいい。
ルールなんていうものは、この世には存在しないんだ。
僕たちは、人生を最高にも最低にもできるんだよ。
だから、君には、最高の人生を送ってほしい。
君にはたくさんの驚きを経験してほしい。
それまで味わったことのないほどの経験を。
違った価値観を持つ人とふれあってほしい。
自分に誇りが持てる人生を歩んでいってほしい。
そして、もしも道を踏み外したなと思ったら、迷いなくやり直す強さを持ってほしいんだ。



私が思うに、社会が子どもに教えるべきこととは、主体性を奪い昔ながらの固定観念を植え付けることではなく、

このベンジャミン・バトンのセリフのように、

一人ひとりには無限の可能性が眠っていること

人生いつだってやり直せるということ

というメッセージを伝えていくことだと感じます。




ここまでお読みいただきまして、ありがとうございました🍀


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