見出し画像

三千世界への旅 魔術/創造/変革73 征服された国とされなかった国


アフリカの植民地化


大航海時代にはアフリカからアジアにかけて、ヨーロッパ人による侵略が行われましたが、アメリカ大陸のようにヨーロッパ人が好き勝手にできたわけではなく、征服された国もあれば、されなかった国もあります。

アフリカ大陸は、オスマン帝国などイスラム勢力が統治していた北部では、国家が機能していた地域が多く、スペインがアルジェリアの一部を侵略した以外は、概ね独立が維持されました。

エチオピアのように、古くから独自の政治や文化が存在していた国も同様です。

イスラム圏だった北アフリカがイギリス、フランスなどによって植民地化されるのは19世紀、産業革命によってこれらの国で近代的な経済発展が加速しだしてからです。

一方、アフリカ中部から南部にかけては多くの部族が存在し、異なる宗教や言語を持ち、古代型の王国が統治している地域もあれば、国家が形成されず、農業・牧畜を行う部族がいたり、狩猟採集だけで暮らす部族いたりする地域もあるという状態だったので、ヨーロッパ人にとっては中南米を開拓したのと同じ要領で、植民地的な領土を獲得していくことができました。


奴隷制度の理性と非理性


ヨーロッパで産業革命が起きた18世紀以後は、鉱物資源がアフリカの主要な産物になりますが、それ以前の主要な産物は人間、つまり奴隷でした。

国家を持たない部族の人々は、ヨーロッパ人にとって動物と同じでしたから、ヨーロッパ人の奴隷商人は何ら良心の呵責を感じることもなく人間を捕まえたり、現地人から買ったりして、ヨーロッパや西インド諸島、アメリカ大陸に輸出し、巨万の富を得たと言います。

そしてアフリカ人奴隷は格安の労働力として、新大陸の農業発展に活用されました。

これは今から見れば非理性的な行為ですが、当時のヨーロッパ人にとっては理性的な意識による経済活動でした。

ヨーロッパ人によるグローバルな侵略・征服・植民地支配と同様、アフリカ人の奴隷化も、その後ヨーロッパ人の理性・非理性の基準が変わったことで、制度上は解消されましたが、それによってすべてが正常化したわけではありません。

奴隷制度の影響は今も経済格差として残っています。そして経済力がものを言う資本主義社会では、経済格差が現代の身分を決定するため、アフリカ系の人々の多くは今も支配される立場に置かれています。

16世紀に始まるヨーロッパ人のグローバルな侵略・征服・支配が、当時の彼らにとって理性的な行為だったように、現代の国家・経済システムによる経済的弱者の支配も理性的な行為と位置付けられていますが、その理性は支配する側にとって都合の悪い非理性的な部分を正当化することで認定されている理性にすぎません。


征服を回避したアジアの国家


アジアにも大航海時代にヨーロッパ人と接触しながら、侵略・征服されなかった国々があります。アユタヤ王朝のタイや、タウングー王朝のビルマ(ミャンマー)、中国の影響を受けた王朝が統治していたベトナムなどです。

ビルマは19世紀に入るとイギリスに侵略・征服されますが、それ以前の大航海時代にはタイと張り合い、ときにはタイを征服したこともあるほど強国だったようです。

大航海時代に栄えていたアユタヤ朝タイは、ポルトガルやフランス、オランダ、イギリスと国交を結び、軍備の援助を受けながら軍事力を増強しました。ビルマと戦争して負けたりしましたが、国内の統治はしっかりしていたのか、ヨーロッパに隙を突かれて征服されてしまうようなことはありませんでした。

ベトナムは中国南部の影響を受けた民族による王朝が目まぐるしく交代したり林立したりしていたようですが、国としてフランスに植民地化されるのは19世紀に入ってからで、大航海時代には独立を維持していました。

カンボジアのクメール(アンコール)王朝は、栄えたのが10世紀から大航海より少し前の14世紀あたりまでで、それ以後はタイの王朝の台頭に押されて衰退し、大航海時代にはアユタヤ王朝の支配下にあったようです。


ビジネスチャンスの開拓


このインドシナ半島からマレー半島にかけては、まずアフリカ・インド航路を開拓したポルトガルがビジネスチャンスを求めて進出し、イギリス・オランダ・フランスがそれに続きました。

スペインはアメリカ大陸の植民地化に注力していたので、フィリピンを獲得した以外はアジアの植民地開拓は行いませんでした。

ポルトガル、イギリス、オランダ、フランスも、スペインがアメリカ大陸でしたような、先住民の国土を征服して丸ごと植民地化する方法ではなく、インドやマレー半島、中国南部沿岸などに拠点を建設し、原材料の獲得・加工や貿易を行いました。

タイやビルマのようにしっかりした国家があって、話が通じるところでは、貿易と並行して軍事援助やコンサルティングを提供しながら、次のビジネスチャンス開拓を狙ったようです。

国家が存在する地域を征服した例としては、オランダによるインドネシアの征服がありますが、最初はやはり東インド会社による交易からスタートしていて、武力による征服・支配が始まるのは17世紀に入ってからです。それも地域ごとに存在する王朝と戦いながら支配地域を広げていったため、インドネシアのかなりの部分を支配するようになるまでにかなりの年月を要しています。


広大なインドの植民地化


当時のインドは今のパキスタンやバングラデシュ、ネパール、スリランカなどを合わせた広大な大陸で、全体を統治するような王朝はなく、中国に匹敵する長い歴史の中で、バラモン教・仏教・イスラム教など様々な宗教を奉じる様々な王朝が、それぞれの地域を支配しては衰退したり滅んだりしてきました。

全体を統治する国家がないということは、国土として隙だらけですから、大航海時代のヨーロッパ各国は、マドラス(今のチェンナイ)やスリランカのコロンボなど、色々な土地に交易・生産拠点を建設しながら、東南アジアや中国へ植民地開拓を進めていきました。

ただ、あまりにも広大で人口も多く、宗教に基づく複雑な社会制度が存在し、異なる王朝が部分的にせよ統治していたので、ヨーロッパの勢力にとって、武力で征服して、植民地を建設するのは容易ではありませんでした。

イギリスがこれにチャレンジして成功するのは、18世紀に入ってからです。香辛料など特産品の獲得を目的としたアジアの開拓が一段落して、次にヨーロッパ人による農地開拓と農業生産へと時代は進んでいました。

イギリスは東インド会社による綿花の栽培と綿糸の生産を大規模に推進するため、武力でインドの征服・支配に踏み切り、これに成功したことで植民地経済の新しい時代を切り拓きました。続いて中国からお茶の苗木を盗み出し、インド東部で広大な茶畑の運営と、その加工にも成功します。紅茶がイギリス人に欠かせない飲み物になるのは19世紀のことです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?