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三千世界への旅 縄文22 海の民と弥生時代

「海民」の誕生


瀬川拓郎の『縄文の思想』などの本によると、縄文の漁民が専業の「海の民」「海民」になり、舟によるモノの輸送や文化・技術の伝播に関わるようになったのは、弥生時代以降のことですから、厳密に言うと彼らはもう縄文人ではないわけですが、それでもその起源が縄文時代にあることは、けっこう大事なんじゃないかと思います。

弥生時代に農耕社会が形成され、川から田畑に水を引く権利が、農耕民によって管理されるようになったことはすでに紹介しましたが、水が農業のために管理されるようになったことで、川や海で行われていた漁業は大きく変化しました。

設楽博己の『縄文vs.弥生』によると、農耕民の中には川や海辺で兼業的に漁を行った人たちもいたようですが、それはヤナや網などによる「待ち」の漁撈だったと言います。

縄文から弥生へと時代が移る中で、漁業も海に出る「攻め」の漁撈から、仕掛けに魚が入ってくるのを待つ「待ち」の漁撈へと変化したということのようです。

しかし一方で、縄文時代から行われていた攻めの漁撈を続ける人たちもいたようで、彼らは、農耕社会から切り離され、特殊な生業の集団になっていったと考えられます。

設楽はそれを「海人集団」と呼んでいますが、意味は瀬川の「海民」と同じと考えていいでしょう。


交易を担う海民・海人


海民・海人はただ専業の漁師になっただけではなかったようです。

縄文時代には山での狩猟や採集も、川や海での漁撈も行っていたのが、限られた漁撈しかできなくなったわけですから、舟を操って移動したりモノを運んだりする技術・能力を活かして、ほかの仕事もするようになったのかもしれません。

『縄文の思想』で語られているような海民が、漁撈だけでなく遠方の地域と交易を行うようになったというのは、そういう事情があって生まれた変化だったということなんでしょう。

前回紹介したように、北陸や東北の海民は、弥生時代に貝輪の材料になる南の海の貝殻など、色々な物資を広い地域に運ぶようになり、日本の商人の源流になっていったと考えられます。

設楽も『縄文vs.弥生』で、海人が貝輪の交易を担っていたと述べています。

また瀬川拓郎によると、彼らのネットワークは、朝鮮半島から渡ってきた農耕民や水田耕作の技術、イネなどの作物の種を、各地へ運ぶ役割を果たしたということですから、弥生時代の産業の普及に大きな役割を果たしたと言えるかもしれません。

舟の変化では、設楽博己によると、丸木舟に舷側板や波除板をセットした準構造船」が、琵琶湖の弥生時代中期の遺跡から出土しているとのことです。

半島といち早く交流を開始した九州北部ではもっと早く、金属器や製材技術、造船技術が入ってきて、長距離移動に適した構造船が造られるようになっていったかもしれません。

舟・船の進化によって、彼ら海民・海人の行動範囲や輸送能力も飛躍的に発展していったのでしょう。


価値観の変化


交易が盛んになると、縄文時代の贈与、霊・魂のやりとりにも変化が生まれたでしょうか?

いちいちアニミズム的な宗教儀礼を行ったり、モノに特殊な意味を込めることもなくなり、等価交換的な価値観が生まれていったでしょうか?

そうしたことを推測する手がかりにはまだ出会っていませんが、弥生時代・古墳時代に国家など支配の仕組みが生まれ、利害対立による戦闘が行われるようになったことを考えると、縄文時代に行われていた霊や魂による交流も変化していったんじゃないかという気がします。


邪馬台国の「水人」


弥生時代の日本、当時の倭について書かれた文献で、最も詳しいのはいわゆる『魏志倭人伝』ですが、その中に魚や海をとる「水人」という人たちが出てきます。

「好んでもぐって魚やはまぐりをとらえ、体に入墨して大魚や水鳥の危害をはらう」(『新訂 魏志倭人伝』岩波文庫)ということですから、船に乗って組織的に魚をとるというより、海辺で素潜り漁をしているイメージです。

「水人」が農民とは異なる専業の漁師なのかどうかもはっきりしません。

その前に、「男子は大小の区別なく、みな顔や体に入墨する」とあるので、水人だけでなく、邪馬台国の男子は身分の上下関係なく、農耕民も含めてみんな顔や体に入墨をしていたようです。

この入墨が縄文時代から受け継がれた風習なのかどうかもわかりません。

縄文人が入墨していたことは、アイヌや後の海民の風習からなんとなく推測できますし、土器をくまなく文様で埋め尽くしていた彼らの美意識からも、自分たちを文様で埋め尽くすのは自然な感じがします。


入墨文化と勾玉文化


しかし、弥生文化は半島から農耕をもたらした人たちが主導して形成された文化でしょうから、農耕社会に融合した縄文人が全身入墨していたからといって、弥生人全員が縄文人の慣習を受け入れたとはかぎりません。

半島から来た人たちにも、元々入墨文化があった可能性もあるからです。

神話やヒスイの勾玉、貝輪など、縄文から弥生に受け継がれた文化もありますから、半島から渡ってきた人たちが、縄文の入墨文化を受け入れた可能性もないわけではありませんが、彼らが元々入墨の習慣を持っていなかったとしたら、先住民である縄文人の入墨の慣習を受け入れるのは、けっこう難しかったんじゃないかという気もします。

入墨は神話やアクセサリーの美学を受け入れるのと違って痛いですし、入墨の習慣がない人から見れば、見た目も異様だからです。

弥生時代の次に来る古墳時代になると、弥生時代よりもっと大陸の広範囲から色々な部族がやってきて、混血が進んだようですが、この時代を代表する製作物である埴輪には、顔を入墨らしい線で覆った人型埴輪見つかっていますから、倭人にとって入墨は相当根強く重要な風習だったのでしょう。


「水人」と「海民」の違い


話を海の民に戻すと、『魏志倭人伝』に出てくる「水人」は、瀬川拓郎の言う「海民」や、設楽の言う「海人」と同じなのかというのが、もうひとつ気になるところです。

「水人」とわざわざ紹介しているところを見ると、『魏志倭人伝』の作者・編集者や、元になる情報をもたらした人たちは、農耕民とは違う特殊な生業の人たちとして「水人」を紹介しているように思えます。

そして、「海民」「海人」が漁業だけでなく、舟・船で長距離移動して交易を行なっていたとされるのに対して、この「水人」はそういう自由で自立した活動をしている人たちではないようです。

交易を行なっているなら、素潜り漁に触れるだけでなく、交易にも触れるのが普通なんじゃないかと思えるからです。


海の民の独立性


「水人」が「海民」「海人」とは別の人たちだとすると、どうして『魏志倭人伝』は「水人」だけ紹介したんでしょうか?

ひとつ考えられるのは、「水人」が邪馬台国の農耕社会・国家の管轄下で、漁業を生業として生きているのに対して、「海民」「海人」が、邪馬台国連合が管轄する農耕民の国家・社会の外で活動する集団だったからということです。

まだ国家が形成される前に、縄文時代からの「攻め」の漁撈を続ける漁民たちが、農耕社会から排除されたとすると、彼らは農耕民から見れば、不安定な生業にこだわる胡散臭い連中ですが、彼らの方は自分たちの技能を生かして自由に生き、経済活動を行なっていったでしょう。

その独立性によって、彼らは邪馬台国連合の外に置かれていたのでしょう。

自由に動き回る商人が、農耕民の社会や国家から胡散臭い連中として蔑視されるのは、日本に限らず世界中で見られる現象で、その傾向は古代から中世まで続きます。


海民・水人・農耕民


瀬川拓郎が言うように、「海民」が朝鮮半島や中国大陸からの器具や文化の輸入、倭人社会への伝播などに大きな役割を果たしていたとするなら、半島や大陸側で倭人との交流に関わっていた人たちにも、その存在は知られていてもおかしくないと思うのですが、

それでも彼らが『魏志倭人伝』で触れられていないのは、外国側から見て彼らは倭人側の国家に所属する集団ではなく、国と国、民族と民族の間をとりもつ集団と見られていたからかもしれません。

一方、舟で外海を移動して、魚を捕ったり、運送業をしたりせず、海辺で素潜り漁などをした漁民は、農耕社会の周辺で農耕民の管理下に置かれるようになり、「水人」となっていったのでしょう。

元々の出所は同じ縄文人でも、農耕民になった人たちと、農耕社会の周辺に留まって「水人」になった漁民と、独立して海に生きる海民・海人になった人たちがいたということです。

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