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時が満ちたと感じた時が潮時

鹿児島の朝は早い。天然温泉が湧く市内では、朝6:00からまちの銭湯で温泉に浸かれる。アーユルヴェーダの古典書にまで、湯治は傷ついた心を癒すために推奨すると書かれているのだ。想定通り明るさに満ちていた通夜の翌朝、それでもかさかさに乾いた心をお湯で浸たしにお風呂へ向かった。

これは別の温泉

お風呂に浸かっている間は一番乗りだと思っていたが、サウナ室を開けたら先客がいた。熱い湯気の向こうに、前後ステップを踏み続けるおばあさんと、アナログのラジオをチューニングし続けるおばあさんの2名。

砂時計をひっくり返そうとするとステップおばあさんが
「あれ、これは私の」
もう一つの砂時計に手を伸ばすとラジオおばあさんが
「これは私の」
そうか…と黙る私を上から下までじろりと見渡してからステップおばあさん「はじめてなの。どこからきた?」

コロナの影響で鹿児島市内はまだナイーブと聞いていたから、県内でと言おうと思ったのについ
「東京から」と言ってしまう。
ナイーブなおばあさんが密室のサウナにいるわけないのだけど、言い訳をするように「実は、祖父の葬式できました」と小さな声で付け加えた。

ステップ「おじいさんのね。おじいさん、市内の人?」
「いえ、種子島です。母方は市内ですが、祖父母は最後種子島で」
ステップ「種屋久ね。種屋久は美人が多いっていうけど、いい顔してるね」
「わたしは東京の世田谷の祖父と生き写しみたいに似てるんですが…」
ラジオ「もう一人のおじいさん、東京の世田谷」
ステップ「東京の世田谷と、種屋久で、どんなご縁で」

ナイーブなはずのおばあさんがグイグイと聞いてくるし、密室のサウナにはラジオおばあさんのアナログラジオが番組を流すまで苦心している様子なので、見ず知らずのおばあさんたちに、サウナトークとして祖父たちの話を披露することになった。

私の祖父、後庵弥三郎と小林達夫は陸軍士官学校の同級生だった。1926年生まれの弥三郎と達夫は若かりし18の頃、それぞれ学業でもスポーツでも優秀な成績を修め、弥三郎は剣道が、達夫はサッカー(蹴球)が得意で、お互いを良きライバルとしてとても大切にしていた。

いよいよ戦争だ、戦地へ赴くぞという時、二人は二人だけの約束をした。
「無事に戦争から帰ってくることがあって、好きな女性ができ、結婚をして、子どもが生まれたとする。それが男と女だったら、結婚させよう」

二人が戦地へ赴く矢先で終戦が告げられ、士官学校を跡にし、東京と鹿児島で大学へ入学し、卒業後にそれぞれ好きな女性ができ、結婚をした。
そうして生まれたのが私の父と母で、父と母から生まれたのが私だ。

ステップ「なんとまっ」
ラジオ「そんなことある?」
ステップ「ドラマみたいね」
ラジオ「ドラマなんじゃない?」
わたし「ドラマにはなってないんですけど、まあ、確かに」

昭和の時代に許嫁とか、男と女だったら結婚させようなど、今の時代に文章にするとかなりジェンダーの問題を感じる。
ただ、結果として私の父は母に一目惚れだったし(残念ながら母はそうではなかったのだけど)弥三郎と達夫にとっては「もし戦争から帰ってきたら」なんて周りの同級生にはとても言葉にできない状況の中、二人だけで交わした約束だったのだ。大切な友達とまた会うための約束だったのだ。

弥三郎と達夫にとって、私は初孫だった。
「目の中に入れても痛くない」
という言葉をそのまま体現するかのように可愛がってもらった。
私は士官学校時代から優秀だった二人の祖父の、その後も立派に仕事をしていく姿を幼い頃から見つめ、何よりも二人の変わらぬ親愛に満ちた交友を見て大きくなった。

大人というのは立派に仕事をするものだし、自分の祖父同士が大親友である不思議を当たり前と思って疑わなかった。
弥三郎は教育で、達夫は経済の業界で互いに切磋琢磨し、正月や夏休みには目に入れても痛くない孫を交互に抱きながら短い休暇を過ごした。

私の幼い頃の写真に両方の祖父が一緒に写ってるものが多いのは、そういうわけだ。

ステップ「達夫おじいさんはまだお元気なの」
「いえ、4年前に亡くなりました」
ラジオ「ご病気で」
「いえ、老衰で」
ステップ「弥三郎おじいさんは」
「彼も老衰で」

厳密にいうと、老衰に近い亡くなり方で、二人とも小さな病気は抱えていたのだけれど、それぞれが「食べるのをやめた」のが死因となった。

少しずつ衰えを増して、自分の力だけでは身体を思うように動かすことができず、我慢のできない痛みや寒さを薬で抑える中で「もうここら辺でいいでしょう」と家族に話し、食べることを手放したのだった。

だから二人とも、亡くなる時には赤ちゃんのように透明な肌をして、けれどこれ以上ないくらいやせ細り、風が吹いたらそのまま浮いて空へと飛んで行ってしまいそうなくらい身体が軽くなって最期を迎えた。

今回の弥三郎おじいさんのだけでなく、達夫おじいさんの納骨の時のことをよく覚えているのだけど、二人とも骨がとても立派で、つなぎ合わせたらそのまま生物の授業に使えそうなくらい美しい骨をしていた。
乳白色で、硬く重く、納骨に時間がかかる骨たちは、二人が健やかに食べ、よく歩き、よく働いた何よりの証だった。

アーユルヴェーダの「ドーシャと年齢」を、私はいつも次のように話す。

人生の1/3はkaphaの時代(生まれおち、成長する過程でこの世の中のことをあるがままに受け止め、心身に維持する)次の1/3はpittaの時代(受け止めたものを世の中に還元するために働く)最後の1/3はvataの時代(使命を終え、風のように吹かれて自由に旅をする)

kaphaからpittaの時代に変化した時、pittaの使命を終えてvataを迎える時、このどちらも容易に知れるものではない。大人になったんだと理解することも、使命を理解し、果たし、引退することも簡単なことではないと思う。

もっと難しいのは、vataの時代を誰にもかまわずふらふらと楽しみ、最後は本当に風に吹かれて飛んでいくかのように死んでいくことだ。時が満ちたことを知り「もうここら辺でいいでしょう」と言葉にできること。

気がつくとラジオおばあさんのラジオが正気を取り戻し、ラジオ体操が流れ出した。二人ともすくっと立って、密室のサウナの中で息をあげながら体操をする。
ステップ「あんたもほら、立ちなさんね」
ラジオ「そうよお、おじいさんみたいに立派な骨を保たなきゃね」
「最近、膝、痛いんですよね」
ステップ「そんなこと言っちゃあかんよ」
ラジオ「そうよお」

みずしらずのおばあさんたちに向かって話をしながら、私は私で、時が満ちつつあることを感じていた。もうずっと、考えていたことだ。祖父たちほどではなくても、私なりに見つけた使命のこと、これから先、果たしていくのなら何を捨て、何を選択するべきなのか。

湯気の中でそれはもう見えていた。一ヶ月後結局、私は自分で立派に選択することなんてできなくて、友人たちに背中を押してもらって選択をした。

年が明けてから、何かとかなしいことばかり起こる。遠く地球の裏側で戦争が起こり、祖父を亡くし、私は友人たちとの温かい場所を離れて新しい巣を作りに旅に出る。

でも不思議とさみしくないのだ。天国で二人のおじいさんが今頃、酒を交わして笑っているのが目に浮かぶからだろうか。サウナ室でおばあさんたちとラジオ体操をして足腰を鍛えたからだろうか。
今ならどこまでも走っていけそうな気がする。
潮時をもう、見逃さないように眼鏡をかけて、屈伸をして、1日を歩く。

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