歌舞伎町で自殺する女の子についての所見

先日歌舞伎町が自殺の名所だという事を知った。Twitterやyoutubeなどで色んなアカウントをウォッチして健常者の研究をするのに最近ハマっているのだが、その流れだ。ホストクラブなどで多額の借金を作り、ホストに見せつけるようにして飛び降りをしたり、男女で心中したりするらしい。

率直な感想は「潔いな」である。欲望のまま短期的な快楽に任せて行動し、最後どうすることもできなくなって死ぬ、というのはとても本能的、動物的で美しささえ感じる。そこに理性が介在する余地は無かったのだろう。

ここで面白いのが、理性が本能に負けているという視点は正しいのかという問いかけが発生しうる事だ。カントは理性を、概念的な思考、推理、判断をする能力であるとともに、衝動的な行動に対して、義務の意識に基づく行為を遂行していく能力と定義している。こうするとまた、思考、推理、判断、義務の意識とは何なのかという疑問が生まれる。多くの哲学者や法学者はこの事について人文的な議論を交わしてきたであろうが、科学的に見ると言葉の内容などさして重要でなく、脳の伝達物質云々の問題なのだろう。

現代社会には動物(人間)に本来存在しなかった刺激(超常刺激)が溢れている。それらがお金儲けとの相性が良いのは言うまでもないし、言ってみればモノのデザインまでも色が人間の脳に与える影響を考えて作られているのだから一概に悪を線引きするのがむつかしい。

話が逸れてしまったが、要するに酒と色恋沙汰と現代社会のカオスがごちゃ混ぜになって脳味噌がバグってしまったのだろう。見せしめに自殺なんてしてもホストの間の笑い話に程度にしかならない気がする。ただそれすら分からず、色んな物を犠牲にして、かたちのない”感情”を追求して、短いうちに命を終えるというのは物語としては情緒に富んでいると思うし、一貫した美学さえ感じてしまう。

果たして「山あり谷あり老いて安らかに死ぬ」ことが規範にすらなっており、人生の"設計図"を想定して普通に生きていく人間がこれほどの情念を持ち、解放することがあるのだろうか。おそらくは無いだろう。その盲目的な価値観はカルト的であり、そういうものを表現したい芸術家も多くいるだろうが、一連の行動を本当にやってしまう人間が実在することを改めて知った。「よくある話」だが、結構考えてみると面白い。キャンバスでしかその狂気を表現できない画家の作品は「机上の空論」でしかなく、フィルムの中で表現する俳優、脚本家は「ピエロ」でしかないのだと。逆から見たら”ネタ”でしかないんだろうけどね。

ホストで借金して自殺、というのは自分には「意味不明の世界」だったので色んな想像が膨らんでしまった。不謹慎な話で申し訳ない。

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