「ニッポン」の「思想」の問題ーー佐々木敦『ニッポンの思想 増補新版』(ちくま学芸)書評

80年代のニューアカ(浅田・中沢)、蓮實・柄谷、90年代の福田・宮台・大塚、ゼロ年代の東、10年代の國分・千葉。もちろん他にも名前は出てくるが、目次をざっとみるとこんな思想史が示されている。80年代よりも前にも当然、思想はあるのだが、1964年生まれの筆者が触れることができた80年代から語っている。そもそもは講談社現代新書2009年出版だが、2016年の論考と、さらに1章書き足して2010年代、2020年代の思想状況も概観している。増補新版は2023年出版。

思想とは何だろう。筆者によれば思想とは「「批評」とか「哲学」とか、あるいは「学問」と呼ばれていたものが、それらが元々収まっていた閉域を超えて、人口に膾炙するようになったもの」と定義される。思想を定義することは実に困難で、私にはできない。が、ものすごく抽象化すると「何かについて論じながら、自分の考えを論じること」ではないか。佐々木がニッポンの思想史における重要プレイヤーとして挙げた上記の思想家たちも、「誰か」について論じている。ドゥルーズ、デリダ、マルクス…。さらに、これらについて論じた思想家について論じる…。「何か」に文学を選べば文学「批評」で、哲学を選べば「哲学」、特定の学問を選べば「学問」。「何か」を作品とするのかテクストとするのかについても議論があり、「何か」という他ない。その「何か」を思想と呼んでいるのかもしれない。作品なのかテクストなのか議論があるとは、「作品/テクストに外部がある/ない」問題のことで、作品ではなくテクストと呼ぶと作品単独では完結しなくなる。じゃあ作品と呼べば作品を外部から遮断できるかというと、そういうわけでもない。要は「作品」や「テクスト」という言葉がどのように使われてきたのか、それこそ思想史と関係している。

この「何かについて論じながら、自分の考えを論じること」は、本書で紹介されているドゥルーズー國分の「哲学研究」に近い。「哲学者に思考を強いた何らかの問い、その哲学者本人にすら明晰に意識されていないその問いを描き出すこと」がドゥルーズの考える哲学研究の使命だと、國分は述べている。対象と自分のあいだには距離があるから対象は対象になりえるのだが、しかし、自分が対象に向かって言葉を紡いでいくと、自分と対象との距離は変わってくる。自己は対象と決して同一化しないだろう。極端なことを言えば、作者ですら自分の作品と距離があり、対象化されうる。自己と対象は、距離があきながらも近づき、やがて対象が見ていた対象を自己が垣間見る瞬間が到来する。「対象が見ていた対象」とは、意識的/無意識的に、である。國分を引けば「明晰に意識されていない」ものも、対象が対象として見ていると言える。

「思想」の次は「ニッポン」である。思想が日本で語られる時、日本独自の展開をする/したのではないか。したとするならば、では具体的にどう日本で思想が展開されたのか。マルクスがロシアで、イギリスで、ドイツで、アメリカで、日本で論じられるとき、どこまで普遍的(国際的)でどこまで個別的(国内的)か、という話だ。国内と国外での(例えば)マルクス受容の比較をするわけではないので、一概にいえないが、日本なりの語られ方はあるはずだ。それを「ニッポンの」思想と筆者は呼んでいる。おそらく哲学・思想という人間(普遍)に迫るものは、個別・具体的な場所と思想家によってのみ解釈されるほかない。80年代〜90年代のバブルを背景にしたニューアカや、95年の阪神大震災とオウム真理教が見せた「終末のビジョン」は、日本の思想にも影響を与えているだろう。個人的には、高校生のころ(1998〜2000年)大塚英志『物語消費論』と宮台真司『終わりなき日常を生きろ』は何度も読んだ。オウム真理教とは何だったのだろう? という疑問であった。その頃には、SFやら何やらサブカル系コンテンツを摂取していたので、こちら/あちらの境界線はあるのかないのか、あるとしたらどこにあるのかは気になっていた。

思想の個別性について本書に寄せるなら「日本という場所において脱構築は可能か?」という問いに変換できる。日本には脱構築の前提となるものがそもそも構築されているのか。日本にあてはまらないこともあれば、日本にだけあてはまるものもある。例えば、ヘーゲルーコジューヴの歴史の終わりを生きる日本人論(日本的スノビズム)。「あてはまる」というのはコジューヴの分析が正しいという意味ではなく、日本(人)に個別化されたという意味でだ。

「日本の「近代」のユニークな性格を構造的にとらえる努力ーー思想の領域でいうと、色々な「思想」が歴史的に構造化されないようようなそういう「構造」の把握ということになる」と書いたのは、『日本の思想』の丸山眞男である。構造化されない構造を日本の思想の特質と指摘している。本書『ニッポンの思想』は丸山『日本の思想』にまったく言及はないが、それは参照していないからはなく、前提としているからだろう。『日本の思想』ではキリスト教、マルクス主義が、伝統的な精神的雑居(寛容)と相容れない異質なものとされたが、『ニッポンの思想』は、ポストマルクス主義ともいえる思想が、日本に思想としてどう受容されたのか(あるいはされなかったのか)を語っているとも言える。となると、丸山が強調するような「精神的雑居」「異質な思想が本当に「交」わらずにただ空間的に同時存在している」様子は、佐々木のいう弁証法ではない思想の「シーソー」状況と重なるのではなかろうか。

最後に余談めいた話。私は「SF評論家」を名乗っている。「SF評論賞」の優秀賞をもらった、というのもある。SFというジャンルをつけているので、ニッチといえばニッチだが、何について書いているのかわかりやすいといえばわかりやすいと思う。評論も、本書を踏まえて私なりに解釈すると、思想に入りそうだ。思想を私なりに「何かについて論じながら、自分の考えを論じること」としたが、その「何か」がSFである。評論はネタバレでも考察でも謎解きでもなく、創作ではないか、と思っている。評論対象が対象とするものを、評論を通じて私も対象化する。では、評論対象の生みの親(=作家)と、評論の書き手(=私)は、同列なのかというと、そんなことはない。私の評論は評論対象作がなければ、存在し得なかった。その逆はない。という意味でも、評論は評論「でしか」ない。が、評論「だから」できることもあるはずで、その一つは作品を作品にすることなんだと思うが、自分でもこれは何を言っているのかわからないので、メモ的に書いておくだけにする。(マルクスのテクストを論じる柄谷のマルクス批評は、マルクスであり柄谷である。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?