学校は退屈しかし/だから大切な場所ーー広田照幸『学校はなぜ退屈でなぜ大切なのか』(ちくまプリマー新書)評

タイトルが刺さったので手に取って読んでみた。「学校はなぜ退屈でなぜ大切なのか?」 筆者は、学校の退屈さを率直に認める。この姿勢は正直である。筆者は研究者で大学で講義もしているので、自分のものもふくめ「学校の授業」が学生にとっては時に退屈で仕方がないものだとわかっている。なぜ退屈なのか。退屈であることを認め、しかし/だから大切でもあると筆者は言う。なぜ大切なのか。

筆者によれば、学校が退屈なのは、子供たちの日常的な経験と切り離された知を学ぶ場所だから退屈なのだ。「これって日常生活で使うのだろうか?」「これを知って何か役に立つのだろうか?」と、子供たちの経験に照らして考えると、いまいちその意義が理解できないことを、学校で朝から昼過ぎ(夕方)まで学ぶ。たしかに、退屈だろう。しかし/だからこそ、大切なことでもある。学校は、世界から意図的に切り離された空間である。ただし、世界をモデルに設計された「練習用世界」とでもいうべき場所になっていて、子供たちは自分の経験を超えた先にある知を学び、広い社会に出る準備をする。経験にないことを学ぶから退屈なのだが、経験にないことを学ぶから大切なのだ。社会に出た時、自分が経験していないことばかり遭遇するだろう。未経験の事態に対応できる能力を育てるために、学校教育はある。あるいは、これからこれまでになかった仕事が生まれてくるだろう。経験だけを頼りにしていたら、新しいものはいつまでたっても生まれない。退屈と大切は表裏一体なのだ。

筆者は学校が持つさまざまな機能を強調する。学校は、大きくは「子供を社会化する」のが目的だ。その上で「どのように社会化するのか?」と細分化すると、学級、教師−生徒関係、仲間(級友)、成績、設備・カリキュラムなど、生徒が学ぶためのさまざまな「仕掛け」が用意されていることがわかる。社会そのものではないが社会をモデル化した社会化を促す仕掛け(装置)である。

学校が目的通りの機能をもつこともあれば、目的とはずれた機能を持つこともある。筆者が学校の機能としてあげているのは「社会化機能」だけではない。「選抜・配分機能」「正当化機能」「居場所機能」も学校の機能としてあげている。コロナ禍の一斉休校でオンライン授業が注目されたが、学校が「授業」だけではないさまざまな仕掛け・機能を持っているために「オンライン授業があるから学校は不要」とはならない。

学校教育の目的は子供を社会化することであると先に述べた。では、社会化するとはどういうことなのか。教育基本法には「平和で民主的な国家及び社会の形成者」を育てることが目的と謳われている。国家や社会の一部にするのではなく、国家や社会を作る人にするのが学校教育の目標なのだ。これは! 知らなかった! 社会の一員になるとは、自分が一員となる先の社会がどんな社会であるべきか考え・行動することも含まれている。極めて再帰的な営みだ。ともすれば、筆者が分析した道徳の教科書のように、「自分を社会にあわせること」「社会の中で自分がしたいことをする」と社会はすでにあるもの(=所与)であり、考えるべきは自分のことだけ、と誘導されてしまう。しかし、社会があって人があるのではなく、人があって社会がある、という根本的な事実を忘れるべきではない。学校教育は社会に出る準備期間であるがゆえに、社会的身分の宙吊り(モラトリアム)状態にあり、だからこそ/それなのに「自分は何者か?」と自問したり他者から問われたりする期間となる。事態は非常に逆説的である。自分は何者でもないから周りから何者になりたいかと問われるが、その問いには何者でもないから自分では答えられない(答えにくさがつきまとう)。「何者になりたいか?」は未来への問いかけなのだが、未来の自分は現在の自分の延長なので、必然的に「何者でもない今の自分」が前提にされる。実に難しい話だ。社会は既定であり、自分が何になりたいかだけ問われ続ける現代の学校は、子供たちに自己決定・自己実現を促しているようで、既存社会の承認を迫っているのではなかろうか。「自分のやりたいことをやりなさい」というのは、本当に子供たちのためにむけて、子供たちのための言葉なのか。


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