ネットは強い絆、リアルは弱い絆――東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』(幻冬舎文庫)

(2019年11月13日シミルボン掲載の再録)

良い本。東浩紀とネットとの関係を理解する一冊。

ネットにはなんでもある。ただし言葉(記号)で表現されるものだけ。またそれについての知識(検索ワード)をすでに知っている場合のみ、アクセス可能。この二つの条件が、ネットからその万能性を奪いつつ、同時に不完全なネットを万能であるかのようにユーザーに感じさせる。

知っているもの・知りたいものを調べる。その結果に満足する。ネットは記号的構築物であり、記号的構築物であればメタゲームの入り込む余地がある。ひとたびメタゲームになると、「体力勝負の消耗戦」となり、暇な人、金と時間をかけられる人が有利になる。

ネット炎上の本質とは、これであろう。確かに、雑誌や新聞といった古いメディアで文字を介した議論というものは昔からあった。学者による論文も、言語的な構築物である。しかし、これらとネットが全く異なっているのは、ネット上でやりとりする文字の量(トラフィック)が膨大であること。簡単に増殖し、簡単に流通する/させることができる。「文字量」といったのは、情報量とイコールではないから。情報ですらないようなただの文字が、ほぼ自動的に増殖・流通していくネット。

そんなネット空間でもたらされたのは何か。コミュニケーションのコストの増大である。コミュニケーションのコストが増大すると、鍵をかけて顔の見える範囲でやり取りをするか、知っている単語を検索窓に入れて、知っている世界にのみアクセスするか。インフルエンサーが影響力を持つのももっともだ。その人間を信頼する・しないという判断さえすれば、価値判断のコストを一気に、その人間にアウトソースできるかという一点へと転嫁することができる。そして信頼する・しないは、エモーショナルなものでもあるので、議論というより共感が重要となってくる。

このような世界で、知らないけれど知ったら面白いものとどうすれば出会えるのか? 増大するコミュニケーションのコストをカットするにはどうしたらよいのか?

東浩紀はこう答える。

旅をしなさい。現実にある偶発性に流されなさい。旅をして移動=時間によって拘束されなさい。新しい欲望が刺激されるでしょう。パーマネントなメンバーである村人、テンポラリーなゲストである旅人の間にある、ある意味で無責任な、偶発的な弱い絆を得る観光客でいなさい。

それが本書の主張である。

なるほど。筆者自身、生活が変わり(結婚、子育て)、「体力勝負」のネットの世界との関係性を見つめなおす必要が出てきたそうだ。これも、なるほど。と思っていたら、先日、東浩紀自身がTwitterアカウントを消した。なぜ消したのだろうか? と疑問に思った人には、本書は一つの答えを示すだろう。

個人的な話。私も大学で表象関係の理論を学んた。「社会は言語構築物でしょ」って思って社会に出てはや十数年。当たり前だが、世の中はそんなになっていなくて、言葉じゃどうしようもない現実ってのがたくさんある。言葉でなんとかしようとしてもメタゲームになって、ただただ疲れる。でも偶発的な出会いもまたあって、これもまた大事。バランス重要。

追記(2024年3月7日)

約5年前の記事である。その後、東浩紀は旧Twitter(現X)のアカウントを復活。せっせとつぶやいている。SNSは出てきた当初の可能性より、普及してきた現在は有害さ(特に若年者のメンタルヘルス)がたびたび指摘されている。私も正直なところなるべくSNSは見ないようにしているのだ…。旧Twitterはスマホからアプリを消した。アカウントを消さないのは、書いた記事を紹介するからなのだが、たまに旧Twitterをのぞくと、しげしげと見入ってしまうので、やはり依存的なプラットフォームなのだろう(いつも誰かが何かとケンカしている構造)。

生成AIが普及し、ネット上の文字量・データ量はますます増加した。一部の人は「生成AIの助けがあれば生産性があがる!」とせっせと使うし、事実その通りなのだろうが、その他大勢の人にとって、ネットから「使える情報」を手に入れる(広義の)コミュニケーションコストがさらに高くなったのではないか。とある大学の先生が、生徒が生成AIを使ってレポートを書いているのかどうか判別するのに時間がかかるとなげいていたが、一部の生産性向上のために、どこかの部分で生産性が著しく低下していないだろうか。むろん「AIにできることをわざわざ人間がしなければならないのか?」と問うことはできるし、「AIにできることを人間がやる必要はない」と主張するのもありだろう。ただ、私はAIやら何やらが代替できるからといって、人間にとって必要なものは必要だと思う。私は、こうしてパソコンで文字入力をして原稿を書いているが、紙に鉛筆で手書きをすることもしているし、車の運転ができても、歩いたり自転車に乗ったりすることを止めるわけではない。自分の脳を使ってアウトプットすることは、AIにアウトプットすることと、根本的に違う経験だろう。

観光(客)は、オーバーツーリズムとして社会問題化している。情報のみならずヒト・モノの移動もかつてないほどに活発なのだ。「村人」と「旅人」のあいだに「観光客」を位置づけているが、観光客の(無)責任さがもたらす可能性と同時に、引き起こす問題もあるのではないか。(→ということで未読『観光客の哲学』)


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