恐怖の(という)表象--戸田山和久『恐怖の哲学』(NHK出版新書)

恐怖とは? アラコワイキャーである。アラは認知、コワイは感覚、キャーは行動。運転免許の講習で、運転に必要なのは認知・判断・操作だと習った。これと似ているようで、実はけっこう違う。車の運転は、操作する人(ドライバー)と操作される乗り物(車)にはっきり分かれている。人間の感情も精神(ドライバー)と身体(車)に分かれている、と考える一派もいるが、筆者が恐怖/ホラーを入り口に深く掘っていく情動の哲学は、そのような身体反応→認知→恐怖の行動、と外見と中身にくっきり分かれるモデルを採用しない。

「恐怖は表象である。アラコワイキャーの場合、恐怖は次のような構造をしている。怖いものの知覚によって身体的反応が引き起こされる。その反応はこれは脅威でっせという評価でもある。その身体的反応をモニターし、自分に脅威が迫っているという中核的関係主題を表象するのが恐怖だ。」

表象というと、絵や文字などの人間が発明した表現手段を連想するが、筆者の考える表象はもっと広い。XがあればYが起こるとき、「XはYをレジスタ(記録)する」という。そのYを示すことが「本来の機能」であれば「XはYを表象する」という。たんに身体的な反応であればあくまでレジスタだが、そこに「自分にとって脅威である」評価がくわわり、その評価が身体反応そのものによって表象されるとき、恐怖の情動が経験される。恐怖の評価は身体によってなされる(逃げるから怖い)が、そもそもの身体的反応もある(鳥肌が立つ、など)。

人間にとっての恐怖は、他の動物が感じる恐怖よりも冗長性というかバッファがあるのだろう。動物の場合、恐怖を認知し評価したら、それは行動として表現される。人間の場合、恐怖を例えばホラー(フィクション、娯楽)として楽しむことができる。ホラーは、恐怖に含まれる快楽をエンターテインメントとして抽出するジャンルなのだ。怖さの中に娯楽を見いだせるのは、人間の恐怖を感じるプロセスが他の動物より複雑だからだろう。プロセスの複雑化は、人間が動物的な「正しい恐怖」を持てない/持たなくてよい理由で、だからこそ安全な社会を作ってこれたのだろうが、他方、もっとおびえるべきものに対しておびえてはどうか(地球温暖化など)と私は思う。

本書は、わかりやすい書き方をしているのだが、内容自体が込み入っていてすべて消化できたかどうか怪しいので、何度か立ち戻って考えたいテーマである。

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