『すばる 批評の未来2017』メモ

出た時に買っていたが、読んでいなかった。「批評とは何か?」と考える切実さが私になかったからだろう。ではその切実さが今あるのかと言われると、よくわからない。よくわからないので、手にとってみた『すばる』の「批評の未来2017(2017年2月号)。

すばるクリティーク賞創設に際し、共同討議で大澤信亮、杉田俊介、中島岳志、浜崎洋介がそれぞれの批評論を展開している。面白いな、と思った発言を引用したい。

浜崎「文芸批評というのは、少なくとも僕にとっては、ジャーナリズムでもなければ、学者の研究論文でもない。あるいは器用な解説文でもないものです。書き手と対象とが、くんずほぐれつの関係を作りながら、ある「読み」に自己を賭けていく営みとしてあった」

浜崎「批評は、むしろ対象と自分との関係の必然を問い返すことによって成り立っているというところがある。(…)批評は、それ自身だけの力によって対象の価値を創り出すんです」

大澤「今の若い人たちに、果たしてそういう緊張感(註:批評の伝統への)があるのか。そもそも批評家がものを書く人間なんだという意識がどこまであるのかもわからない。ネットで騒ぎまくったり、テレビやラジオで話すのが批評家だと思っているかもしれない」

杉田「彼ら(註:若い人たち)が批評をやることにある種の切実さを僕は感じました。人生をかけて何かを書いたり、考えたりしている。ただ、かけがえのない感覚をどう表現するかというときに、社会を器用に分析したり、わかりやすい市場へ届けるというスタイルになって、彼ら自身の切実さが殺がれている気もした」

浜崎「文芸批評というのは、「文芸についての批評」であると同時に「文芸としての批評」なんだと(註:井口時男の言葉)。理由は簡単で、対象が言葉だからですよ。対象が言葉だと、批評は、最終的にメタレベルとオブジェクトレベルを明確に区別できなくなる」

中島「断言するために、引用文献を持ってくるのがアカデミズムの仕事で、批評は断言する「私」に梯子が架けられて文体で表現するもの」

杉田「やっぱり私語りになっていく。対象について語っているつもりが、どんどん「私」に閉じていく。そこにはジレンマを感じます」

大澤「他者に読ませるというのは大変なことですよね。俺は頭がいいぜと見せかけながら読ませることもできるし、自分はここまでぎりぎりなんだということを提示しながら読ませるということもある。この切実な他者意識ですね。読まれることを意識していない文章が結構ありますよね。「自分はこう考えましたので読んでください。わかる人がわかればいいです」では、読まされるほうはきつい。何か必死に自分の中の大切なものを届けようとするような、そのために構成の一字一句の表現を読者のために工夫するような、そういう姿勢が必要ですね」

批評とは何か。わかるようで、わからない、自分の問題である。批評対象と自分との関係の問題である。自分と作品との関係を、第三者=他者たる批評の読者に読んでもらうことである。大切なのは「私」だが、「私」で終わってはならない。私と作品、私と世界を言葉で結ぶ。(作品がなければ批評は存在しない? 作品がない世界は存在しない? 世界は存在している。ゆえに作品は存在し、作品が存在している以上、世界に批評は存在する。必ず?)

評論(ここでいう批評)がこういうものだろう、と概念的に理解できても、自分がそういう評論を書けないことには、どうしようもない。ということは、私が評論を書いている理由は、評論が書けていないから書いている、となる。最近、なんで自分が書いているのかよくわからないで書いている。書きたいものがあるから書いているのだが、誰に頼まれたわけではなく、自分で自分に発注して書いている。ひょっとしたら誰も目にしないかもしれない評論を書いている。でも、誰かに向けて書いている。完全な自己満足というわけでもないようだ。義務感? 義務感より「呪い」に近いかもしれない。呪いを解く言葉を探している。ただ、「切実さ」とも違う気がする。書かなくても(=呪いを解かなくても)生きていける呪いだから。ドラクエの復活の呪文か。一冊本を出してみてわかったのは、自分は本を出せるようだが、自分が自分の理想とする評論を書けるかどうかはわからない、ひょっとしたら書けないかもしれない、でも書けるかもしれない。とにかく、よくわからない、ということがわかったのだった…。

ちなみに『すばる』には若手批評家(といっても私と同世代だが)四人、岡和田晃、藤田直哉、矢野利裕、荒木優太の批評が掲載されている。クリティーク賞の「模範演技」なのだろう。(全部面白かったけど)4つの中で、特に面白いと思ったのは荒木優太の森鴎外『百物語』論であった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?