めんどくさいことをやらなくてよいと無意識に思える状態がまさに特権――清田隆之『よかれと思ってやったのに 男たちの「失敗学」入門』(双葉文庫)書評

(2020年9月10日シミルボン掲載 の再掲) 

恋バナユニット・桃山商事は、清田と仲間たちが学生時代に立ち上げたサークルで、主に女性からの恋愛相談を聞く活動をしている。膨大なケーススタディが蓄積されていく中で、清田は男たちの失敗を類型化し、背景にある共通の要素、男性問題と呼びうるジェンダー問題を穿り出す。代表・清田隆之による「男たちの「失敗学」入門」と題された本書を、女性が読めば「あるある」と共感するし、男性が読めば「えっ、そうなの!?」の目からうろこや「これ、自分もやったことある…」と身につまされること必至である。

類型化される男たちの生態は
・小さな面倒を押し付けてくる男たち
・何かと恋愛的な文脈で受け取る男たち
・決断を先延ばしにする男たち
・謝らない男たち
・仕事とプライベートで別人のようになってしまう男たち
・プライドに囚われる男たち
・すぐ不機嫌になる男たち
・何事も適当で大雑把な男たち

などなど全20種類。具体的に男たちのふるまいが記述されているので、男性読者で「全く当てはまらない」「なんのことかさっぱり」という人は、まずいないだろう(いたとしたら、それはそれで別の問題に接続されるということも示されている)。

上記のような男性のふるまいが可能になっているのは、男性のもつ特権が関係していると清田は指摘する。

男性の特権とは何か? 大仰な言葉遣いをしたが、その大仰さに振り回されると物事の本質が見えなくなる。ここでいう特権とは「本来はやらなければならないことが、やらなくてよいのだと無意識化されている状態」と定義される。

例えばカップルがデートに行こうと計画を立てる。「いつ」「どこに」「どうやって」「何をする」「何を食べる」と決めることはたくさんあるが、男性はどうも煮え切らない。「君に任せるよ」と女性の決定を尊重するようなそぶりをするのだが、女性にしてみれば尊重されている気がしない。これが「決断を先延ばしにする男」である。問題となっているのは、デートをするにあたり必要となる手間=コストを、男性は負担する必要がないと無意識に思っていることだ。無意識化されているから、ややこしい。女性が男性に決断を求めれば求めるほど「うっとうしい」「めんどくさい」「なんでわざわざ俺が」となる。

二人で共同生活をするのであれば、家事という生きるためのコストが発生する。このコストについても男性は無意識で免除されていると思っている。「わざわざ」やらなければならないし、やったらやったで「わざわざやってやった」と謎の上から目線になる。この「謎」は、コストをかけなくてよいことが無意識化されている(特権である)男性にとっては謎でも何でもない当たり前のことだが、女性にとってみたら「なぜそこまで上から目線なの?」となる。この男女の非対称性を指して特権といっている。

「すぐに不機嫌になる男たち」は感情を言語化するコストをかけず、周囲に自分の不機嫌さの正体である感情を忖度するように求める。家事を分担するにしても、「何をどのようにやるか」という共有ルールを制定する努力を手間と考え、やらない。だから「何事も適当で大雑把な男たち」ができあがる。そこかしこに、男性の無意識化された特権が見え隠れする。

ではどうすればよいのか? 男というジェンダー、男という価値観を再考することである。「プライドに囚われる男たち」ははっきりと序列にこだわるし、はっきりとはわからなくても序列にこだわる。とにかく序列にこだわることが内面化されている。この状態では自分の感情を率直に認め、吐露することはできない。男という価値観を再考しつつ、億劫がらずに感情を言語化すること。男性がやらずにすんでいた(しかしそうと気づいていなかった)膨大なことのごく一部であるが、これを少しずつやっていくほかないのではないか、と本書は言う。

本書の面白い点は、ジェンダーや男性学の専門家と著者の対談が章末に挟まれていることだ。テーマは「セクハラ」「性教育」「ホモソーシャル」「DV」「ハゲ問題」と重要かつ切実なものだ。さらなる専門書への橋渡もしている。「恋バナ」とは民俗学的な実践ですらあるのだ、と思う。身につまされる話も多く、ほんとすんません。

追記(2024年2月8日)

ここ数年、「男性学」とくくれる男というジェンダーに注目したエッセイや研究などさまざま出てきている。エッセイやインタビューよりだが研究者との橋渡しもする手堅く&重要な仕事をしているのが清田隆之で、「男性性(ジェンダー)について本を読んでみたいけれど、何から読んでいいのやら…むずかしいのはちょっと」という人はまずこれを読んでもらいたい。そして、さらに知りたい場合は、ここを入り口に先へ進むのが良いと思う。専門書もふくめて紹介されている。

現在が「ポスト男性学」なのかどうかは、難しい。「ポスト男性学」とは「男性学」が前景化した問題を「乗り越えた=ポスト」の状態である。男性学が問題にしたのは、さまざまあるが、社会・経済的に構造化された男性の特権だけではなく、男性ジェンダーについての語りにくさ、男らしさの呪縛(有害な男性性)もふくむ。男性(規範的、としてもいいだろう)には男性「特有」の生きづらさがあり、それを自分たちの言葉で語っていくことは大事…。その通り。そういう実践もされている。では「ポスト男性学」にたどり着いたのか? よく指摘されるのは「男性も弱い自己を開示していこう」という語りすらも、男性性の規範に回収されてしまうこと。「自己開示できている自分」「育児家事参加できている自分」と、ある意味で、他の男性との競争(マウンティング)になっていないか?

そういえば、先日、竹田ダニエルとキニマンス塚本ニキのポリタスTV対談を聞いていたら、アメリカの男性(といっても一部だろうが)が、セラピーやカウンセリングを受けていると自己開示することで「メンタルケアもできる自分なんですよ」アピールしている、という話が出てきた。たぶんケア概念は、競争やマウントと対局にあるものなのだが、どうしても「男性」がやると、競争の論理に回収されてしまうのではないか…。そこまで根深い男性的論理は、どこまでが社会的構築物で、どこまでが生物学的なバックグランドがあるもので、どこをどの程度まで「緩和」できるのか、なんて考えている。

最近は、SNSでの自己開示、というほどでなくてもプライベートな近況報告はほとんどしない。もうTwitterはないし。Facebookは「〇年前の今日」を見るのが楽しみで、むかしはけっこう、社会問題もプライベートも書いていたな、としみじみ。いまはもうSNSでそこまでやらない。ブログ変わりにnoteに記事を書くが、SNSとはまた雰囲気が異なる。男性ジェンダーについて考えていることはあるが、言葉にできていない。誰かに話してもいないし、SNSでつぶやく気もない。(SNSでジェンダー的な話をしても、うまくいく気がしない。)しかし、言葉にはしたい。考えれば考えるほど、言葉がひっこんでしまう。どうしたものか…。(男性的生きづらさ、という訳でもない気もする。)直接に自分の経験を語りたくないのかもしれない。とあれば、SFをはさんで話してみたら、良いかもしれない。


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