物語の中の科学、物語の外の科学――倉谷滋『地球外生物学――SF映画に「進化」を読む』(工作舎)評

筆者は、リドリー・スコット『エイリアン』から続くシリーズのエイリアンや、日本の特撮(『ウルトラQ』『ウルトラマン』など)に出てくる宇宙人を、生物学的に検討する。もちろん、フィクションの地球外生物を、現実の科学で分析するには限界がある。限界があるのだが、逆にいえば限界「までは」十分に検討できる。「もう無理」という直前まで、綿密に検討している筆者の手際が素晴らしい。生物学の門外漢である私には、すべての議論が理解できるわけではないが、「なるほど!」と思うところも多かった。(『エイリアン』の完全版をじつは見ておらず、かなり重要なシーンがあったようなのだ…。まだ勉強不足)何より筆者がSF映画をこよなく愛していて、とくにスコット『エイリアン』への(偏?)愛はすごい。だからこそ可能となる分析だろう。エイリアン・シリーズが好きならば、1章だけでも読む価値はある。『コヴェナント』のスピンオフ的書籍、「デイヴィッドの素描」なるものもあるようだ。未邦訳だが、見てみたい。

本書で面白いと思ったのは、SF映画で人類が遭遇するエイリアンの形態と、人類の科学技術の水準を、比較検討しているところ。『エイリアン』なら冷凍睡眠(ハイパースリープ)が実用化しているし、宇宙船ノストロモ号には疑似重力も発生している。対して『ライフ』の宇宙船はぐっと現在のものにちかく、疑似重力は作られていない。SF映画で宇宙探査を描くには、冷凍睡眠、核融合、ワープ、疑似重力など、いくつかの技術的ブレイクスルーが必要になる。現在の人類の技術では、地球外生物にであうには至難のわざだ。エイリアンに会いに行く時に使う技術と、出会ったエイリアンの形態が、うまくマッチしているか、という指摘は実に面白い。「マッチ」と雑にいってしまったが、物語的、そしてフィクション込みの科学的な整合性、といえばよいか。筆者は、『ライフ』は技術とエイリアンのミスマッチがあるのでは? と考えている。


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