見出し画像

読書感想文【紀ノ川】

1959年 有吉佐和子
和歌山の素封家を舞台に、明治・大正・昭和の時代を女性三代の視点で描く。

女三代記ということで、『大地』(パール・S・バック著)の和歌山版かなぁ、などと読み始めて思っていた。それよりはずっとスケールも小さいし、三人それぞれ波乱万丈、というにはずっと穏やかなように思うが、その分細やかで繊細な情景描写が実に面白い。

三代の女は、明治生まれの花、大正生まれの娘・文緒、昭和生まれの孫・華子。現在日本で最高齢とされている方は明治40年(1907年)生まれの116歳だそうで、つまり花もそれくらいということになるだろう。日露戦争が起こる前なのでもっと以前か。
60年前の著作であるから当然なのだが、はるか昔であることをしみじみと感じ入る。
特に花の娘時代、嫁入りの描写などは時代劇のようでとても興味深い。船で紀ノ川を下っていく様などまさにそのものである。日本の風俗を研究する上でも貴重な資料だと思う。今一度映像化などされたら面白いだろうが、再現には非常に苦労することだろう。

物語は大体が花視点で進む。
というか三代記、と銘打ちながらほぼ花の人生、娘時代から死去まで、を綴っている。たまたまその人生に自分を含めた三人の女が深く関わっていた、とでも言おうか。
時代は明治から大正、昭和と日本の激動の時代ではあるが、その中でも泰然と流れる紀ノ川のように、花の人生もまた、周囲に翻弄されつつも超越したものがあるように感じる。
花自身の生まれ持った性質もあるだろうが、悠久の時を流れてきた紀ノ川こそがそれを育んだとも言える。

そのように感じるのは、自分自身が和歌山とそれなり馴染みがあるからかもしれない。
生まれ育ったところは大阪だが和歌山にもほど近く、周囲には和歌山出身の人もいたし、和歌山に縁付いた人も多かった。
作中でも和歌山の人間はのんびり者、といった表現があるが、なにかとせっかちな大阪人と比較すると確かにそうした気質を感じる。気候が穏やかだから人間も穏やか、とは昔からよく耳にした言葉だ。洗練された美しさには乏しいかもしれないが、乱雑な温かさとでも言おうか、人の良さは和歌山人の美徳だろう。
会話文はかなり強い和歌山の方言で書かれており、馴染みのある自分なら結構リアルに脳内再生出来るが、例えば生粋の関東人などには難しいのではないかな、と思う。そういう意味では運が良かった。

花の娘、文緒に関して言えば、永遠の思春期のような、読んでいて何故かこちらが恥ずかしさを覚えるほどの反発心を母親・花に抱いている。
娘時代から徹頭徹尾、結婚して母親になってもその反抗期は終わらない。終始その調子で良い印象を抱きづらいのだが、花の優秀さを目の当たりにすればそれも十分有り得そうな気がする。反発の裏側には、花の才覚を認めるゆえの歯がゆさがあったのではないだろうか。

花の夫にして文緒の父親である真谷敬策は、成功した政治家であり、それを成立させていたのは花である。
もちろん彼自身に相応の力がなければ無理な話で、本人の力量を否定はしないが、伴侶が花でなければそれほどの功績は上げられなかっただろうことは多分間違いない。
花自身とて素封家である真谷の御っさんとして周囲には十二分に認められているが、文緒にしてみればそれは夫ありきの名声。あくまでも夫を支える妻としての働きだけが認められている、自身の才覚を認められたわけではない。もっと言えばその父親も真谷、という昔ながらの庄屋、地主の財をうまくやりくりしただけのように見えたのではないだろうか。
戦前とは先祖代々の地力がものをいう時代であり、それを覆すことは容易ではなかった。
文緒の学んだ自由主義?はその思いを刺激したのだろう。
自分の才覚ひとつで、自身の人生を切り開いていくことの輝かしさに目がくらみ、それが母親への反発へと結びついたのではないか。

伝統に反発し、否定するのは次の世代の宿命であり逃れがたい習性である。
子供っぽい反抗を続ける娘に、しかし花は仕方ないなと思い、時には怒髪天をついたりもするが、決して切り捨てることなく、深い深い家族の情を持ち続けている。無償の愛とでも表現すべきか。
しかし無償は必ずしも無償、ではない。
心の充足が絶対的にある。
かつて花の祖母、豊乃がそうしたように、自分の血族、殊に同性の子孫を自分の満足のいくように接することの、なんと甘美なことか。
子どもは親の所有物ではない、とは昨今よく聞く言葉だが、一種の成果物の意味を持つことは恐らく否定しきれないだろう。この作品に限って言えばそう読み取れる。
自分の人生や経験、思想をどれだけ投影できるか。結果をみて親は少なからず満足したり失望したりする。それは子供に対してだけではなく、自分に対してでもある。
花にとって文緒は、その意味で失敗作といっても良いかもしれない。何かにつけて花を否定し、自分たちは自分たちだけの力で人生を切り開いてきた、と主張するような文緒の言動は片腹痛いところがある。
文緒が花の掌で踊ってきたとまでは言わない。花にそこまでの力はないし、文緒は文緒なりに、自分の才能を信じ、その時自分のできる限りの力で生きてきた。けれどそれは母親を、故郷の和歌山を否定することを原動力とした、となれば彼女の人生は虚しいものだと思う。彼女がこれからの人生でどう思うかは別にして、もしそう思ったら可愛そうだな、とも思う。
そういう意味で、変化の時代を生き疑問を提示されながらも、自分の生き様を否定する気持ちの芽生えなかった花は幸せだろう。
果たしてそれが花の強さであるのか、愚直と表現すべき愚かさであるのか、そこは意見が分かれるところか。

そして昭和生まれの華子。
文緒と比較してもうひとつ影の薄さがあるけれど、花の晩年に与えられた赦しや救いのようにも見える。
文緒に否定されてばかりだった花の生き様を、僅かなりとも認めるための存在であった。母親の苛烈な反骨心を飛び越えて、戦争で一度叩き折られた日本人を象徴するかのような、一見優柔不断なほどにも見える優しさでもって、そっと死に瀕した花に寄り添う。
そういう時代だった、といえばそれだけの事かもしれないが、こんな風に側についてくれる孫がいてよかったね、と素直に思える。

作者、有吉佐和子の伝え聞く苛烈で破天荒な性格は文緒に近いのではないだろうかと思っていたが、年代的には孫、華子と同年代である。
作者の中にある和歌山への思いを分解して、一つ一つの命を与えてみたら三人の女になった、というところだろうか。
彼女自身の和歌山で過ごした年月もそう長くはない。その上でこの和歌山という土地に対する解像度の高さは流石だと恐れ入る。

和歌山を知るための教科書として、是非。


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?