『エビス・ラビリンス』試し読み(15)

「ハラ ン ナカ」 金子ユミ

 今年も海がやって来る。だから俺は釣竿を手にした。
 吹き抜けになっているJR恵比寿駅舎の二階と駅前ロータリーを繋ぐ巨大エスカレーター。下りエスカレーターの乗り口から見下ろすと、駅舎の一階を行き交う人々が、ゆらりゆれる魚影の群れに見えてくる。
「こんな大きい街じゃなかった。昔は」
 釣り針の具合を指で確かめながら、年寄りは唸った。
「垢抜けなくてよ。素っ気なくてよ。どこもかしこも背が低かった。それが今は」
 地面の大きさは未来永劫変わらないだろ。だけど俺は言わずにいた。
 過去は古びた毛布だ。他者にとっては気味の悪い代物だが、当人にはこの上なく心地よい。
 目黒の富士見坂に住む年寄りは、天を突き刺して見えるタワー目指し、毎朝一本道をてくてく歩いていた。道中半ばに見える赤い巨大球の前を通り、ビルの谷底を過ぎ、動く歩道に乗る。この歩道に乗るたびに、年寄りはいつもぞくぞくする。
 運命ってやつだな。こりゃあ運命だ。黙っててもどっかに運ばれちまう。
 運命はやがて、年寄りの目にJR恵比寿駅の改札口を見せる。
 年寄りは七時の開店と同時に、駅構内にある神戸屋キッチンで、毎朝必ずジャーマンを買う。税込六二六円。
 だけどここ最近は一日で食べきれないことも多くなったため、半分サイズの三一三円を買うようになった。きっかり半値にしているところが、義理堅いような、頑ななような。
 そうぼやく年寄りを、俺は横目で見た。
「だったら一日おきに買えよ。第一、なんでそんなジャーマンにこだわるんだ」
「当たり前だ、同盟国だ」
「負けた国の人間が、負けた国の名前を冠したパンを毎日食うのか」
 負債がたまりそうな人生だ。俺は鼻で嗤い、握った釣竿を振ってみた。エスカレーターで運ばれてくる通勤客の頭に釣り針が刺さる。「お疲れ様です! お疲れ様です!」
 そんな通勤客に向かい、今朝も年寄りは律儀に声をかけている。が、誰一人彼を振り返らない。
 長い長いエスカレーターに整然と乗り込み、駅改札へと歩調を乱さず進む通勤客はイワシの群れ。すでにここは海だ。
 俺はエスカレーターの乗り口から、再び駅舎の一階を覗き込んだ。
「海だ」
 びちゃ、びちゃと駅構内に潮が満ちているのが見える。通勤客の足元を、すでにくるぶしまで濡らしている。顔を上げて見渡すと、駅舎の窓から見えるロータリーにも海水が押し寄せ始めていた。
「来る」
 言うや、ばたばた、と音を立て、上から黒いものが降り注いだ。駅舎の高い天井に穴を開け、それらは真上から降ってくる。
 魚だ。大小様々、色とりどりの魚が空から降ってくる。恵比寿駅の構内は、あっという間に通勤客と魚で満たされた。
 ごおごお、と、渦を巻く音がする。駅前のビルの間隙を縫い、四方八方から海が押し寄せているのだ。塩っ辛い水はたちまちビルを呑み、地下鉄の入り口に流れ、車をぷかぷかと浮かせた。
「今年こそ」
 年寄りが俺の傍らでうめく。その手には半分サイズのジャーマン。敗戦国の名前。毎日、年寄りが買っては捨てていることを俺は知っている。
「今年こそ釣るぞ」
 降り注ぐ魚、押し寄せる海、行き過ぎる通勤客。その流れの真ん中で、年寄りは夢見るような口調でつぶやいた。
「あの時、オレは、七歳だった」
 年寄りの言葉を、俺は黙って聞いていた。釣竿を握り直す。
「だから仕方なかった。仕方なかったんだよ」
「知ってるよ」
 俺が答えた瞬間。
 ひと際大きい音を立て、駅舎の天井がぶち破られた。巨体が真上から飛び込んでくる。朝日の輝きに輪郭を縁取られた巨躯は、神か、悪魔か。
「クジラ!」
 俺と年寄りはいっせいに声を上げた。通勤客を満杯に乗せたエスカレーター目がけ、巨大クジラが降ってくる。
 ぶん、と釣竿を振った。鋭いが小さい釣り針が巨体のほんの端っこに引っかかる。
 とたん、海水が満ち満ちた駅舎にクジラの巨体が沈み込んだ。大きく逆巻いた飛沫が吹き抜けの構内を洗う。どどど、と海水がエスカレーターの傾斜を這い上った。
 ぐい、と釣竿が強く引っ張られた。「うわっ!」、勢いに、俺は宙に放り出された。二階から一階へとまっさかさまに落ちる。俺の脚に年寄りがすがり付いた。
「いぃっ」
 一階にいるクジラが大きく口を開けた。赤黒い闇。
 年寄りが叫ぶ。
「釣れた!」
(続く)


この記事が参加している募集

文学フリマ