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ざんしょおみまいもうしあげます1987~2022

今年も。届きました。
S先生からの残暑お見舞い。
年によっては、暑中お見舞いの時もある。
そして、年賀状も毎年欠かさず届く。
一年に2回のハガキ。
小さな字がぎっしりと印刷されたハガキは、ひらがなが多く使われている。

S先生は、長女が中学2年の時のK組の先生。
K組は、特殊学級。(現在は特別支援学級)
校舎の一階の、玄関に一番近いところに教室がある。
S先生のハガキに、ひらがながたくさん使われているのは、知的障害の教え子たちが読めるようにとの配慮だろう。
しかし、字が小さすぎて、読みにくいことも事実だ。
たくさんのことを、いっぱい詰め込んで書いて、絵まで入れるから、小さい字になってしまうのだろう。
小さなハガキの紙面に、たくさんの情報量。

長女は、S先生のハガキが届いても、関心を示さない。
まったく。
ハガキを見せると、
「だれ、それ?」と聞くだけ。

35年前のことだ。
中学生だった長女は、K組に通っていたが、いわゆる、問題を起こしてばかりの、「問題児」とされていた。
当時のK組の担任は、主任の女性教師(もうすぐ定年)、副主任の女性教師、そして、若手男性教師のS先生の3人だった。
新人のS先生は、あまり発言権はなく、主任のU先生が、ベテランということで、指揮を執っていた。

長女はU先生にとって、都合のいい生徒ではなかった。
ようするにいい子ではなかった。
私は、U先生にとって、都合のいい母親では、なかった。
自分の意見を持つ母親だった。
そういうわけで、私たち親子にはつらい学校生活が続いた。

毎日、午後2時になると、家の電話がなった。
U先生からだ。
「きょう、娘さんは、普通学級の花壇に入りました。
併設校なので、普通学級には十分注意するように言ってください。」
そして次の日も、また2時に電話がなった。
「娘さんは椅子にじっと座っていません。何とかしてください。」
そして次の日、
「校庭を走るように言ったのですが、娘さんは校庭に出ませんでした。
私は教室から、生徒が走るのを見ていましたが、娘さんは走っていませんでした。」

そして次の日も、次の日も。
私は、毎日、午後2時が近づくと、胃が痛くなった。
確かに、長女は、知的障害があって、とても、大変な子だ。
だから、K組なのだ。
走って来なさいと、口で言っただけでは、玄関に行って、靴を履き替えて、校庭に出て、走るというような複雑なことはできない。
きちんと、一つ一つ、こうやるんだよと説明しながらやって見せなくてはできない。
じっと椅子に座っていられるなら、普通学級に行けるだろう。
だけど、その年の、K組の生徒はおとなしい子が多かった。
多動で、多弁な長女は、先生たちの手に余ったのだろう。

私は、学校に行き、U先生と話し合った。
「精神科には行っているんですか?」
とU先生は聞いた。

長女は幼稚園の先生に紹介された、児童精神科医にずっと見てもらっており、抗てんかん薬も処方されていた。
「児童精神科医には意見を聞いています。
思春期の難しい年ごろで、成長の一環として、いろいろな行動が出ていると医師は言っています。」
そう私が告げると、U先生は首を傾げ
「そうは思えない。」と言った

そして、とうとう、U先生は、強硬手段にでた。
その日の電話の内容は、
「もう、学校では見られませんから、これから、S先生に家まで送ってもらいます。
学校には来なくていいです。
精神科病院に入院すれば、来年の3月には、卒業証書は渡します。」

一台の赤い車が家の前に止まった。
車からは、長女が下りてきた。
運転して家まで連れてきたのは、S先生だった。
S先生は何か言いたそうな顔をしていたが、すぐ、帰っていった。
それいらい、S先生には会っていない。
もともと、あまり言葉を交わしたことがない先生だった。

しばらく呆然としていたが、長女が帰ってきているので、これは何とかしなくてはと気を取り直した。
次の日からは忙しかった。
児童精神科医に、連絡を取り、事情を説明した。
「障害のある子が行くのが、K組なのに、学校で、面倒見られないっていうのはおかしい。」と医師は言ってくれた。
その次に私の小学校時代の先生で、養護学校(現在の特別支援校)の先生をしている恩師に相談した。

そこまで言われるのなら、こちらから、学校をやめよう。
こうなったら、養護学校に転校する手続きの方法を考えなくては。
そうこうするうちに、教育委員会で、話し合いが行われることになった。

U先生の言い分は変わらず、
「卒業までの期間、精神科病院に入院すること。
思春期病棟のある病院に見学に行くこと。
卒業まで入院していれば、卒業証書は出す」だった。

私は自分の意見を言った。
「長女に中学校を辞めさせます。
中学時代の1年間という貴重な時間を入院させたくない。
とても大事な一年間ですから。
K組の卒業証書は、いりません。」

中学2年生の2学期で、通学をやめた。
そして、中学2年の三学期は、神経内科のてんかん病棟へ入院し、薬合わせをすることになった。
小児科から、大人に変わる時期、いろいろな変化が起きる時期だった。
ワンクールの3か月で退院し、4月からは、養護学校の中等部3年生に編入することになった。

とても、開放的で、明るい雰囲気の学校で、熱心な先生たちに出会えた。
長女は毎日、先生と一緒にマラソンし、一緒に調理をし、楽しく通学しはじめた。
学校が家から遠くなり、バスと電車を使う通学になったが、1カ月ほどで、一人で通学できるようになった。
新しい環境で、生き生き過ごし始めた長女。
私も、午後2時の電話から解放され、生き返った。
そんな生活をしていたから、すっかり忘れていたのだ。
K組の先生たちのこと。

S先生からの、「年賀状」と、「暑中お見舞い、あるいは残暑お見舞い」が届くようになったのは、長女が転校してからのことだった。

忘れていなかったのだ。
S先生は。
毎年、印刷されたハガキのすみっこに、自筆で書かれている。
「げんきにしていますか?」の文字。

長女はスルーしているけれど、私は毎年返事を書く。
「毎日、元気に、あゆみえんに通っています。」
35年間のハガキのやりとり。

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