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日本のサポーター史3大暴動事件簿

いつもは明るく楽しい雰囲気のスタジアムが、険悪なムードになることがある。険悪・・・くらいであれば、まだ話の種になるが、これが暴動となると笑えない。残念ながら日本のスタジアムでも大小の暴力事件は発生している。ここでは、3つの事件について取り上げてみたい。

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1997年10月26日 フランス大会予選UAE戦の国立暴動

厳密な意味で「暴動」と断言できる事件は、この事件だけかもしれない。FIFAワールドカップ1998フランス大会アジア最終予選B組のUAE代表戦は、早い時間に先制したものの追いつかれ1-1の引き分けに終わった。アディショナルタイムが極端に短かったこともサポーターの怒りに火をつけた。日本代表は、ここまで1勝3分け1敗。迎えたホームゲーム。次の試合は1位抜確実の韓国代表が対戦相手となる日韓戦のアウェイ。既に、加茂監督は解任され背水の陣での戦いだった。

日本代表が、まだワールドカップに出場したことがなかった時代。ワールドカップ・アジア地区予選を勝ち抜くことにサポーターは全身全霊を賭けて応援し、報道番組でもトップニュースで報じていた時代だからこそ、サポーターは目の前の試合に一喜一憂し、ギリギリの緊張感を持ってスタンドに足を運んでいた。国立競技場のフェンスの上を飛び交う生卵、パイプ椅子、ペットボトル、空き缶・・・。

日本代表は次の日韓戦でまさかの快勝。そして、ジョホールバルでワールドカップ初出場を決める。あの日、暴徒と化したサポーターに立ち向かったカズはワールドカップのメンバーから漏れた。

2008年5月17日 浦和vsG大阪・埼スタ無法地帯

2008年5月17日(土)14:04キックオフ・埼玉スタジアム。試合結果は浦和レッズ2-3ガンバ大阪。入場者数57,050人の大半を占める浦和レッズサポーターの多くがフラストレーションを溜めていた。ただ負けただけでも不満な試合の原因を主審の誤審に求めた。そして、勝利を喜ぶガンバ大阪の選手への八つ当たりもあった。だが、それ以前に火種があったのだ。試合前にビジター席のガンバ大阪サポーターから投げ入れられた水風船が浦和サポーターの子供に命中。その後も、多くの物がビジタースタンドから浦和レッズサポーターに投げ込まれていたのだった。

試合後、暴徒と化した浦和レッズサポーターに包囲されたビジター席で約1,000人のガンバ大阪サポーターは監禁された。ペットボトル、旗棒等が飛び、1名のガンバ大阪サポーターがピッチとスタンドの間の堀に転落。浦和レッズサポーターがガンバ大阪サポーターのフラッグを奪う行為も起きた。ガンバ大阪サポーターの多くは、安全確保のため、機動隊の特殊車両や貸し切りバス16台で帰路に着いた。

1968年5月23日 アーセナル見たさに入場口を強行突破

1960年代の日本サッカーは、日本代表や日本選抜と来日した海外プロクラブとが対戦する国際親善試合が人気だった。1966年、日本選抜が初の海外プロクラブと対戦するスターリング・アルビオン戦は大観衆の入場に手間取り試合開始時刻を10分間遅らせたことが記録されている。スターリング・アルビオンは前年にスコットランドリーグ2部を優勝して1部に昇格したクラブ。しかし、当時は、海外プロクラブの来日という出来事がサッカーファンの間ではビッグニュースであったようだ。そして1968年にはイングランドの名門・アーセナルが来日。メキシコ五輪を控えた日本代表と試合を行った。ここで暴動事件が発生した。イングランド一部リーグのチームを生で見たいと国立競技場に45,000人とも58,000人ともいわれる観客が詰め掛ける。現代と違って、当時のチケットはネット予約がないどころか、ほとんどが当日券販売だった。チケットを買い求める人数があまりに多く、準備が不十分だったために観客はチケット売り場を破壊しそうな勢いに。最終的には、フェンスが破壊され突破されスタンドにはチケットを持たない者がなだれ込んだ。


暴動事件が発生するきっかけは様々。3つの暴動事件も、その性格は異なる。しかし、いずれも、試合そのもの(結果等)以外に、サポーターのフラストレーションが溜まる事柄が発生し暴動に発展している。幸い、日本では、今のところ海外のような死者を伴う暴動事件は発生していないが、紙一重の事故は、ここに紹介した事件以外にも起きている。特に運営サイドには、サポーターのフラストレーションを溜めるようなリスクの排除をお願いしたい。この先、不幸な暴動事件が発生しないよう、サポーター並びに関係者には心掛けてほしいと思う。




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