見出し画像

賛否に燃えるサポーターのゴミ拾い ルーツは1985年10月26日 韓国に負けたくない想いからだった

FIFAワールドカップでの日本サポーターのゴミ拾いは4年ごとの恒例行事となっている。例えばFIFAワールドカップ ブラジル2014では英国高級紙ガーディアンが選定した「W杯が教えてくれた17のこと」に日本サポーターの清掃活動がランクイン。世界的に高い評価を受けている。

しかし、それでも、この行動を批判するものは後を絶たない。その批判の根拠に何があるのかは計り知れないが、それとは関係なく世界は変化している。日本サポーターのゴミ拾いは持続可能な社会を目指す社会とシンクロし、新たな局面に入ったようにも見える。ついには、大会運営委員会から表彰を受けたのだ。

日本サポーターのゴミ拾いのルーツを探る

では、このゴミ拾いは、いつ始まったのだろう。そして、なぜ始まったのだろう。この謎を解くには、FIFAワールドカップの観戦と通常の海外でのサッカー観戦、さらにはJリーグ観戦との違いを理解する必要がある。

FIFAワールドカップは世界最大のお祭りだ。その魅力は様々だが、一つ大きな要素に「お互いの文化を認め褒め合う心地よさ」がある。現地に行けばイングランド人は、そのルーツや民族に関係なくビールを無尽蔵に飲んでいる。それを他国のサポーターは「イングランドっぽい」と写真に撮り、一緒に飲み「イングランドは強いね」と声をかける。デュッセルドルフで会ったメキシコ人男性は例外なく気軽に女性をダンスに誘っていた。ブラジル人は陽気でサンバのリズムに乗って「絶対に守らないと思われる約束」を気軽に持ちかける。全ての参加国は、少し誇張して母国の国民性を演じる。自らを説明不要で示すことができるユニフォームや民族印象に身を包む。国内では批判を受けそうな行為でも、現地では、批判の対象になることどころか褒め称えられることも多い。なぜなら、その方が参加する誰もがお互いのアイデンティティや国という単位を確認できるしコミュニケーションをとりやすいからだ。

FIFAワールドカップの旅を最大限に楽しむために役立つ「日本人らしさ」

そんな環境において「社会性がありルールを守り思いやりに溢れている日本人」であることは、極めて他国のサポーターからコミュニケーションを求められやすい。ゴミ拾いは素晴らしい活動なのだが、それに加えて「日本人らしさ」を表現できる手段でもあるのだ。だから、ゴミ拾いをすれば、他国のサポーターから声をかけられるケースもあるし、開催国の人々から感謝されることもある。やればやるほど、やめる理由は無くなるのだ。FIFAワールドカップの旅を最大限に楽しみ見たいならば、自分の座席の周囲のゴミを拾った方が絶対に良い。そこには単に観戦するだけではない何かが生まれやすいからだ。

青いゴミ袋と日本サポーターのゴミ拾いの関係

では、日本サポーターのゴミ拾いはコミュニケーションのためのツールやあざとい行為なのかと言われると、それは違うと断言できる。なぜなら、この行為は、日本のサポーターカルチャーの歩みの中で生まれてきたからだ。日本サッカー史の延長線に日本サポーターのゴミ拾いはあるのだ。

日本サポーターのゴミ拾いが大きく取り上げられたのはFIFAワールドカップ フランス1998アジア地区予選だった。応援の圧力を大きく見せるために、日本サポーターは青いゴミ袋を使用した。特に、崖っぷちに立たされたアウェイの韓国代表戦では、真っ赤に染まった蚕室総合運動場のゴール裏スタンドが青く膨張して見えた。この試合でソウルに渡った日本人サポーターは5千人以上といわれ、東京や大阪からの飛行機便は満席。止むを得ず、東京から地方空港を経由して玄界灘を渡る人がいるくらい熱のこもった応援だったが、その主要なアイテムが青いゴミ袋だった。そして、この青いゴミ袋は、試合後に正真正銘のゴミ袋となり、日本サポーターの陣取ったスタンドはゴミ一つない姿となってソウル市に返還されたのだった。この応援は、初出場したFIFAワールドカップ フランス1998でも継続され、日本サポーターのゴミ拾いは欧州デビューをした。

蚕室総合運動場のゴール裏スタンド

ただ、青いゴミ袋による応援があったから日本サポーターのゴミ拾いが生まれたわけではない。今の世代には信じられないことかもしれないが、当時の応援は常軌を逸するほどの規模と熱気に包まれていたのだ。選手入場時にスタンドから撒かれる紙吹雪の量は膨大で、国立競技場の排水溝を詰まらせた。紙吹雪が風に乗ってスタジアム外に飛び散り、近くの首都高速道路の通行を遮断する事件まで起きた。そのようなことから、当時の日本サポーターは、撒いた紙吹雪を自分たちで拾う必要があったのだ。そして、飲み物や食べ物のゴミも例外なく拾った。

こうした紙吹雪による応援はJリーグでも行われていたので、日本代表戦だけでゴミ拾いが行われていたのではない。私は、1990年代の半ばまで、ホウキとチリトリを持参してJリーグのスタジアムに通っていた時期があるほどだった。そして、紙吹雪の応援が始まる以前からゴミ拾いは行われていた。

1995年のJリーグの応援

Jリーグのサポーターの多くはJリーグブーム時にゴミ拾いを開始

1994年2月23日号のサッカーマガジンは1年目のJリーグの騒音問題、移転問題等が取り上げられていた。その中にゴミ問題も取り上げられていた。特に問題となったのはスタジアム周辺の路上に投げ捨てられるゴミだった。各スタジアムに大型のゴミ箱が設置されたのは、この頃からだった。そして、Jリーグのサポーターの多くはすでにゴミ拾いを開始していた。なぜなら、当時のサポーターの概念は新しいもので「クラブと一体となって社会に貢献する人々」として位置付けられていたからだ。自分たちの居場所であるスタジアムと、その周辺がゴミにまみれていることなど、当時の多くのサポーターは許すことができなかったのだ。

完敗だった「メキシコの青い空」の涙の向こう側

おそらく、多くの伝承は、ここまで遡って終わる。「日本サポーターのゴミ拾いはコミュニケーションのためのツールやあざとい行為なのではない。Jリーグ誕生当時にルーツがあるのだ。」と。しかし、本当のルーツは、ここからさらに10年近くも昔にあることを知ってほしい。ルーツは1985年10月26日。そう、あの日本サッカー史に残る「メキシコの青い空」の日だ。

「東京千駄ヶ谷の国立競技場の曇り空の向こうに、メキシコの青い空が近づいてきているような気がします。」N H Kアナウンサー・山本浩さんは、このホーム&アウェイの決戦に勝てば日本代表がFIFAワールドカップ メキシコ1986に初出場できるという日韓戦の放送開始時に、このように実況した。ご存知の通り、超満員に膨れ上がった国立競技場で開催された第1戦は完敗。スタンドには、韓国から応援に来たサポーター、韓国代表を応援する在日韓国人のサポーターが多数来場し、日本サポーターと激しい応援合戦を繰り広げていた。

その後、1992年に浦和レッズのサポーターカルチャーを定義づけた人物がいる。吉沢康一さんだ。彼が設立したサポーター団体のクレージーコールズは「不良性」をコンセプトに掲げ、その後の日本サッカー界に大きな影響を与えた。そんな吉沢さんも、あの日、国立競技場で日本代表を応援していたサポーターの一人。1994年に発売された書籍『THE RED BOOK 闘うレッズ 12番目の選手たち』(大栄出版)の中に、このような記述がある。

「あの“10月26日”は“そこまでやられたらお手上げだ”というほど悔しい思い出として残っているんです。負けた僕らは悔しくて、虚しくって呆然としてスタンドに目をやったら、自分たちで出したゴミを、韓国の人が拾っているんですよ。涙が出ました。ああ、ここまでやられたら勝てねえなあって。選手も負けたけど、僕らもずいぶん差があるよなって。そう思ったんです。その時の悔しさは今でも忘れられないんです。そういうこともあって、昨年の天皇杯あたりから僕は周りのゴミを片付け始めたんです。観客はまだ2、3000人の頃だからすごーく目立ってたと思う。別にゴミを拾うのがいいからやっていたというよりも、過激なサポーターだと思われていた僕らが、競技場を使わしてもらえるとかもらえないっていう話になるのも嫌だからなんです。」

日本サポーターのゴミ拾いは自然体で続く

ゴミ拾いのルーツは1986年の日韓戦、そして、Jリーグが始まる以前の1992年の天皇杯にあった。吉沢さんの始めた動機は、ちょっとネガティブな立ち位置からだったかもしれない。「勝負の神様は細部に宿る」という宗教的な観念からだったかもしれない。しかし、良い行いはサポーターの連帯意識からすぐに広がる。あっという間にJリーグ各クラブのサポーターにゴミ拾いは広がっていった。こうした歴史を振り返ると、今も続く日本サポーターのゴミ拾いは無意識に潜んだ「日本人らしさ」から自然に身体が動いてしまうものなのではないかと感じる。どのようなルーツを持つ人でも、生まれが海外の人でも、日本で長く暮らせば、なんとなく日本の生活に適合し「日本人らしさ」が身についてしまうところがある。ここでいう「日本人らしさ」は日本社会との関わり方だからだ。この先も、きっと4年ごとに、日本サポーターのゴミ拾いは世界で話題となるだろう。


ありがとうございます。あなたのご支援に感謝申し上げます。