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概念なんて曖昧だねという話

そもそも概念とはなんなんだ。


この思考そのものは様々な概念から成り立っている。と、思っていたけど本当にそうなのか?

概念について考えているのに、この概念で合ってるんだろうか。そもそも思考とか概念ってなんなんだ。


まず「思考」を調べてみたら、こう書いてあった。


1 考えること。経験や知識をもとにあれこれと頭を働かせること。「―を巡らす」「―力が鈍る」2 哲学で、広義には、人間の知的精神作用の総称。狭義には、感覚や表象の内容を概念化し、判断し、推理する知性の働きをいう。3 心理学で、感覚や表象の内容を概念化し、判断し、推理する心の働きや機能をいう。(goo国語辞書より)


感覚や表象の内容を「概念化し」と書いてある。うん?よくわからない。

じゃ「概念」は?


1 物事の概括的な意味内容。「―をつかむ」「文学という―から外れる」2 《concept》形式論理学で、事物の本質をとらえる思考の形式。個々に共通な特徴が抽象によって抽出され、それ以外の性質は捨象されて構成される。内包と外延をもち、言語によって表される。(goo国語辞書より)


こんどは物事の本質をとらえる「思考」の形式と書いてある。うーん?ますますよくわからない。

もはや意味そのものが曖昧な概念になっている。

つまり「自分」とはこんな曖昧なもので構成されているんだから信念とか信条とかにこだわって、あまり生真面目にとらえて深刻にならないでもいいんじゃないだろうか、と早くも結論に至る。

簡単に言えば『これはこういうものである』『これはこうなるものである』と言う自分が思いこんでいるいろんな常識を束にして「概念」って言ってるんじゃなかろうか。

『こうすべき』『こうなるはず』だから『こうしなければ』っている、いわゆるネバ・ベキ・ハズなども概念化されている思いこみ。

人間だって生き物だから、身の安全を守るためにわざわざ思考しなくても、無意識に反応している。やっぱりネバ・ベキ・ハズは後付けされた『概念』だ。



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概念なんて人ぞれぞれさ


ちなみに私はなぜか道化師やピエロが好きでよくピエロの絵を描くけれど、じつは「ピエロ」ってのは役の名前で道化師全体は「クラウン」と呼ぶそうだ。

「ピエロ」は「クラウン」の中でも悲しさや淋しさを表現する役どころ。だからメイクも一般のクラウン達ほど派手ではなくて、「ピエロ」は泣き顔だったり困った顔だったりとどことなく悲しげな表情をしている。1枚目のイラストみたいなの。一般的な道化師(クラウン)は2枚目のイラストみたいなの。

昔、日本にサーカスが入ってきた時に道化師を「ピエロ」と紹介したために、日本ではこれらの道化師たちを総称して「ピエロ」と呼ぶようになったそうだ。ここでしっかりと日本人に「ピエロ」とい名詞が定着し、ピエロとはこう言うものという概念ができあがった。

これは私だけの感覚かもしれないがなんとなく「ピエロ」の方が「クラウン」という言葉よりもおどけた感じの言葉の響きがあるような気がする。

じつは道化師は「クラウン」が正解なんですよ、と言われても「ピエロ」の方がしっくり来る。これは私の道化師の名称についての概念だ。

そんな「感じ」とか「気がする」とかそういうもので個人的な「概念」なんて決まるのだと思う。

「言葉」は先述したようにたまたまそう紹介したからってだけで、それが名称として固定されて概念化することがよくある。

例えば「お茶の水」と言う地名はかつて土地に名前などなかったけれど、将軍様にさしだすお茶の水をその土地からとってきていたため、そのまんま「お茶の水」と言う土地名になったそうだ。

そのほかに「日本(にほん)」と言う国名も、大昔、外国人がやって来て、この島の名称を発音できなくてジパング(グってなんなんだ)と発音したことから「ジャパン」になったそうな。

本来、日本に住んでいる日本人が「にほん」と呼んでるんだから「にほん」でいいじゃねーかと思うのだけど、基軸言語の英語が「ジャパン」で、今や日本人以外の76億人くらいが「ジャパン」と呼んででるわけで、もう日本人でさえ意味が伝われば別にいいか、って感じです。昔は抵抗したかも知れないけど。

つまり「言葉」とはそんなふうに曖昧な概念で成り立っていて、思考はそんな「言葉」の羅列なんですね。「自分」そのものは「思考(言葉や知識)」という「概念」でできてますから、確定されていない曖昧な存在なわけです。

その「確定されていない曖昧な存在」の織りなす曖昧な世界観が世界人口と同じ数だけあるから、そりゃあ、あちこちでバチバチするのも当然です。そういう意味でも、人は自分の好きなように解釈して世界を見ているということが納得できます。

そしてさらに、この世界は毎日のように新しい「言葉(造語や略語や流行語も含む)」ができています。毎日のように「お茶の水」のように無造作に生み出された言葉が固定化し、それがじわじわと概念化していくわけなんです。

で、古い概念はどんどん捨てられ書き変わっていく。思考(概念)が毎日のようにアップデートされている。それが「自分」です。

「自分」が毎日新しく更新されているのに、古い記憶を持ちだして「ストーリー」を展開するのが自我。

そして「自我」は「自分(自分という感覚)」なので、ストーリーを作っているのも見ているのも「自我」ややこしいね。

いつも思うのだけど「自我」による自作自演なんだなあ、とわかっていながらこの自作自演の「ストーリー」に巻き込まれてしまう「自分(自我)」なのでした。

弱い私。

と思いこんでるのもやっぱり自我。どこまで行ってもトリッキーなやつです。












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