ノア・スミス「テクノ楽観主義についての考察」(2023年10月21日)

ぼくにとってどんな意義があって,どうしてぼくはこれを支持してるのか

By Cory Doctorow from Beautiful Downtown Burbank, USA - The Sphere as Mars, view from my hotel room at Harrah’s, Las Vegas, Nevada, USA, CC BY-SA 2.0,

「いやはや,とんだ大間違いだ!門を開けろ!」

――ミュンヒハウゼン男爵

今週のいろんなネタをまとめたときに,マーク・アンドリーセンの「テクノ楽観主義マニフェスト」に賛成の意を表しておいた.2つほど意見がちがう点も書き添えたけれど,全体として,技術発展の加速を支持する主張をこういう風に妥協なしにぶっぱなすことこそ,陰気な2010年代の停滞した空気から脱出するのに必要だ.

ただ,マークのマニフェストでは,ぼくがテクノ楽観主義について考えてることはいまひとつ明確に述べられていない.もちろん,見解が一致してる部分もあるけれど,自分の言葉で考えを言い表しなおすことで得られるものがたくさんありそうだ.その方が,ぼくが「テクノ楽観主義者」だよって言ったときになにを言わんとしてるのかを,みんなに正確にわかってもらえる.

さて,なにを言わんとしてるのかを述べていこう.

楽観主義のいろんなタイプ: 実証的 vs. 規範的,積極的 vs. 消極的

「楽観主義」って言葉が使われるとき,それで言わんとしてることはさまざまに異なる.そこで,まずはちょっと分類をしておくとしよう.まず,テクノロジーの進歩に関しては,楽観的になれることが基本的に2つある:

  1. まだ発見されずに残っている有用なテクノロジーがたくさんあると考えられること.

  2. 新しいテクノロジーが世の中をもっとよくすると考えられること.

経済学から用語を借用して,この2つのテクノ楽観主義をそれぞれ「実証的」「規範的」と呼んでもいいだろう.

明らかに,この2つは別物だ.たとえば,自律型ドローンのテクノロジーが今後10年間でものすごく進歩するだろうってことに「楽観的」だってぼくはよく言う.でも,同時に,そのテクノロジーの大半は,宅配みたいな民生用途よりも戦争に利用されるだろうとも思ってる.さて,それは必ずしも人類にとって悪いニュースではない――空中でロボットどうしが戦うように未来の戦争が変化していくなら,人間の死者はずっと減少してもおかしくない.強力な新しい軍事テクノロジーが登場すると人間の戦争がいろんな点でマシになるかというと,ぼくにはあまり自信がない.ぼくが自信をもっているのは,そういうテクノロジーが可能だっていう予測の方だ.

実証的なテクノ楽観主義は,ようするに停滞論の逆だ.近年,知識人の多くがこんな風に言いはじめている――「基本的に,この宇宙がなしうることという果実のうち,手近で収穫しやすいものを人類はあらかたとりつくしてしまっていて,未来のイノベーションはもっと高くつくようになる」とか,さらには,「イノベーションは大幅に減速してしまう」とか.他方で,実証的なテクノ楽観主義はこう考える.「いや,まだまだ手近で収穫しやすい果実はたくさんあるし,総 GDP に比べればまだまだそんなに収穫の費用は高くつかない.」

規範的なテクノ楽観主義は,これとはちがう.その考えはこういうものだ.「テクノロジーが増えるほど,世界は人類にとってよりよい場所になる.」 実のところ,このタイプのテクノ楽観主義は意外なほど珍しい――ぼくのお気に入り SF 作品のなかには,暗黙にであれ明示的にであれ,こんな発想を中心に組み立てられてたりする.「人間にできることがどれだけ向上しようと,人間の根本にある野蛮な性質はけっして変わらない.」 こういう考えは広く見られる.ぼくにわかるかぎりだと,この考え方は,20世紀の世界大戦に由来している.2度の世界大戦では,1941年以前の生活水準向上に用いられていた工業テクノロジーが,破壊的な目的のために転用された.テクノロジーが増えればぼくらはもっとマシな人間になると主張した人たちはほんの一握りだけいる――スティーブン・ピンカーは『暴力の人類史』でこの論証を展開したし,SF作家のロイス・マクマスター・ビジョルドが書いた作品ではこれが暗黙の前提になっていたと思う.

と,まあ,これが一つ目の区別だ.そして,このどちらにも,さらに積極的・消極的なかたちの楽観主義を定義できる.消極的な楽観主義とは,ようするに,こういう考えだ.「ぼくら人間がしかるべき手を打ちさえすれば,テクノロジーはこのまま急速に進歩し続けるし,そして/あるいは,テクノロジーによって人間の生活は改善していく.」 積極的な楽観論は,グラムシその他の人たちが「意思の楽観主義」というやつだ.なんなら,この2つを「無条件の楽観主義」と「条件付きの楽観主義」と呼んでもいい.

これで,ちょっとした2×2のチャートを定義できる:

もちろん,これらは相互に排他的ではない.たとえば,「テクノロジーの進歩は不可避だ「と考えつつも,同時に,「それが人類に便益をもたらすのは正しい政策を選んだときにかぎられる」と考える人がいてもおかしくない.あるいは,「テクノロジーの進歩が続くのは正しい政策を選んだときにかぎられるけれど,進歩が続いたなら自動的に世界にとっていいことになる」と考えることもできる――などなど.

ぼく個人としては,実証的・規範的テクノ楽観主義の両方を採っている.ただし,どちらにも留保をつける.これからなされるべき新しい重大発見はたくさんあると思ってるけれど,他方で,発見のためにかかるコストはかつてより高くつくようになってきてるとも思う.また,たいていの人たちにとってテクノロジーは生活をよりよくする結果になるけれども,いつでもそうなるとはかぎらないとも思う.

ただ,どちらの場合にも,ぼくがとる楽観主義はどちらかというと消極的なものよりは積極的なものに寄っている.イノベーションのペースを維持することであれ,イノベーションが確実に人類の益になるよう手を打つことであれ,正しい政策を選ぶのがとても大事だ.

そこで,ぼくがこういうことを考える理由について披瀝させてもらおう.

テクノ楽観主義は人間主義だ

Art by @emikusano

アメリカ人が「テクノロジー」について考えるとき,そこで思い浮かべられるのは,おうおうにして,なにやらややこしい機械だったりしがちだ.そしてたぶん,その機械にはスクリーンがついてる.ただ,ぼくとしては,日本語でいう「技術」の意味でテクノロジーを考える方がいいと思ってる.「技術」は場合によって「技」("technique") を意味することもあれば,「技能」("skill") を意味することもある.こちらの方が,ずっと一般的な定義になっているし,経済学者がテクノロジーについて考えるときにも,基本的にそっちの意味で考えている.

経済学では,テクノロジーは社会が消費できるモノの集合を拡大するのだと考える――言い換えると,テクノロジーは人々に開かれてるいろんな選択肢を拡大するってことだ.だからといって,テクノロジーによって個々人の選択肢がいつでも広がるとはかぎらない――たとえば,インターネットと携帯電話の時代に,そのグリッドから出て行くのはかつてよりもずっとむずかしい.ただ,人類が集団としてのぞみさえすれば,グリッドからかんたんに出て行ける世界に戻れなくもない.インターネットと携帯電話は,ぼくらにそうするかしないかの選択肢をもたらした.他方,1060年の世界に,そんな選択肢はなかった.

人間が集団としてもっている選択肢の集合を増やすって考えは,GDP の経済学的な概念と密接に関連している.GDP とは,みんなが生産するモノに人々が総体としてどれくらい支払うのを選んだかによって定義される.つまり,GDP とは人間の選択を測ってる数字なんだ.完璧に対応しているわけではない.だって,GDP の計算から洩れてるものもあるからね(余暇や格差などなど).ただ,これはすごく密接に関連してる.だからこそ,テクノロジーの便益について語るときに多くの人たちがこういうグラフを持ち出してるんだ:

過去2000年にわたる世界の GDP の推移

もちろん,GDP 全体は,2つのことを表している:一人一人の人たちがモノにどれくらい支払うかってことと,支払いをする人たちがどれくらいいるのかってこと,この2つだ.これにちょっと関係してる考えがある.いろんなリソースが増えたとき,それを使って人間を増やしてもいいし,すでにいる人間の生活水準を引き上げてもいいっていう考えだ.これは同じことじゃない.というのも,GDP はリソース使用と等しくはないからだ(脱成長を唱える人たちは一貫してここんところを間違ってる).ただ,世界全体の GDP が増えてきたために,人類の人口を増やしたり生活水準を引き上げたりできたのは事実だ.

世界の人口,紀元前 10,000年から 2021年まで
一人あたり GDP の推移,1820年から2018年まで

このどちらも,集団としての人類による選択だ.そして,こういう選択肢は時とともに変化するかもしれない.テクノロジーが進歩するのと並行して,人間は授かる子供をどんどん減らしていく方を選んできた.世界人口は,そう遠くない未来に縮小をはじめる見込みが大きい.それこそがぼくらがのぞんで選んだことなら,しかたない.

テクノロジーの進歩がたいていは人類にとっていいことだとぼくが考える主な理由は――ぼくが「規範的」なタイプのテクノ楽観主義をとってる理由は――次の点にある.すなわち,人間にはできるだけたくさんの選択肢が与えられるべきだって,ぼくは腹の底から信じてるんだ.これは,いろんな事実で証明できるようなことじゃない――これは,たんなる道徳的な直観だ.ぼくは人間主義者だ.人間は,あれやこれや,いろんなことをのぞんでる.そういう人たちに,望みのものを手に入れてもらいたいとぼくは思ってる.だからって,望みどおりのものを手に入れたときの方が必ずよりしあわせになるとはかぎらない.ときには,不幸せにつながる選択をしてしまうことだってある.でも,人間主義者として,我らが人類には選択する権利があるとぼくは信じてる.

ただ,次の点は肝に銘じておこう.集団としての選択は,個々人の選択と同じじゃない.社会がする選択が,個々人の選択に反している場合もよくある――たとえば,罪を犯したキミを社会が牢屋にぶちこんだりとか.人間主義的なタイプの規範的テクノ楽観主義を信じるとなると,次の点を信じる必要がある:平均で見て,長期的に,個々人の選択を増やす結果になるように社会は選択をしていくはずだ――なんらかの種類の自由主義がやがて社会全体にいきわたるはずだ,と信じる必要がある.さて,これはちょっとばかり〔『歴史の終わり』のフランシス・〕フクヤマっぽい考えでもある.この考えをとった場合,必然的にこう信じることにもなる:「一般的に,やがて,社会は個人にとって正しいことをする.」

こう信じたところで,思ったとおりにならない場合もよくある.ソ連は重要なテクノロジーをたくさん発明したけれど,イデオロギーを追求したあげくに自国の人々を貧しくさせてしまった.そのイデオロギーは,結局のところ反人間主義だと証明されたわけだ.それに,「抑圧的な社会は必ずコケる」とも信じていない――経済的な優勢を維持したまま,中国がますます権威主義的な統制を強めてる様をみてみるといい.それどころか,中国が新テクノロジーを使って新種のデジタル全体主義体制を築いていることは,ぼくのテクノ楽観主義にとってきびしい難題だ.ただ,文化大革命の頃や何世紀も昔に比べればずっとマシではあると思うけど.

また,人類の集団としての選択によって,発言権がない存在が害をこうむることも心配だ――なにって,動物のことだよ.ゆくゆくは,ぼくらも自然界のよき世話係になるかもしれないし,豊かな国々ではそちらへ向かう確かな動きがある.ただ,いまのところ,人類の人口増加と生産増加によって,我らが隣人たる動物たちの大半に破壊がもたらされている.なぜって,ぼくらの選択肢は動物たちの選択肢と同じではないからだ.というわけで,これはぼくのテクノ楽観主義にとっての試練であり,対処する必要があると思う.

ただ,ともあれ,テクノ楽観主義の核心は,こう信じるところにある――「人類は宇宙に対してもっと集団としての制御ができるようになってしかるべきだ.」 ぼく自身も,いくらか留保はつけつつ,全体としてそう信じてる.この地球が,紀元後1000年や1800年や,1971年の状態にもどるのはのぞまない.(2012年に戻りたいかというと,その質問は2~3年後にお願いしたいかな.)

まだまだ発見を待っているテクノロジーがたくさんあると考えるべき理由

ぼくは,「実証的な」タイプのテクノ楽観主義者でもある――つまり,まだまだ発見できるモノはたくさん残っていると考えてる.どうしてそう思うかって言うと,テクノロジーというものの性質が,ぼくらによる発見を妨げがちだからだ.

どういうことか,説明させてほしい.誰かが科学的な発見をしたり,新しい製造技術か何かを発明したりしたとき,たいてい,その人はその発見や発明の功績を認められる――昇進したり昇給したり,なんらかの知的な承認を得たりする.ときに,自分の発明をもとに会社をつくって成功して,莫大な金銭的報酬を得ることだってある.ただ,一般に,新しい発明がもたらす便益は,その発見のために努力やお金を注がなかった他の人たちに転がり込む.発明をそのまま猿まねする人たちや,その発明を目敏く模倣したりリバースエンジニアリングしたり盗んだりする人たちが,便益を得たりするわけだ.

これを「正の外部性」という.実のところ,科学そのものが,経済学者たちのいう「純粋な公共財」にすごく近い(ただし戦時はのぞく).これに関して経済学者たちが教えてくれるのは,こんなことだ:公共財は,十分に供給されない.発明のインセンティブは,十分に強くない.(公共財にかぎらず,正の外部性があるものなら,これはなんにでも当てはまるよ.) 他人が儲ける種になるものを発見するために人生を実験室ですごす理由なんてある? だから,実験室で人生をすごす人たちは十分に多くならない.

( 「テクノ楽観主義マニフェスト」で,テクノロジーの発明は「慈善事業」(フィランソロピー)だとマークが語るときに言わんとしてるのは,このことだ.当然,社会のいろんな病理を解決するのに慈善事業はまるで不十分だ.同様に,発明を愛するから発明にいそしむ人たちもいるとはいえ,それでは,テクノロジーの進歩を十分に急速に促進するのにはぜんぜん足りない.)

発明不足の問題に対処するべく,ぼくらの社会はいろんな仕組みをたくさん発展させてきた.発明者には特許による独占を与えて,彼らが手に入れる金銭的な見返りを増やした(もっとも,特許トロールを生み出すことで発明の一部を損ないもするけれど).政府を使って基礎研究の資金提供もしている――たんに基礎的な科学だけじゃなく,応用面にも資金を提供している.企業の研究開発にも税控除を与えている.

将来の進歩をもたらすいろんな機会に関してぼくが楽観視してるのはなぜかっていうと,こうした方策ではいまだにひどく不十分だと思ってるからだ.妥当そうな各種モデルからは,研究開発への支出を増やして得られる経済的な見返りは,GDP の増加という観点で見ると,まだまだすごく大きい.それはつまり,もっと支出を増やせば――あるいは他の方法で発明にインセンティブを与えれば――さらにもっとたくさんのことを,もっと迅速に発明できるだろうってことだ.

新しいテクノロジーを開発するのがだんだん難しくなってきていることを示す証拠は,かなり正しそうだ.1600年代には,誰か一人がごく簡素な実験室でなんだかんだとモノをいじくり回していると,この宇宙の基本法則を発見できた.いまでもそういうことが可能かもしれないけれど,かつてほど頻繁には起こらない.合成生物学みたいな新しい研究分野の一部では,好事家がガレージで一人っきりで取り組んで安く発明をもたらすのも,いくらかはやりやすい.でも,AI みたいな分野では,これまでの枠を超えてなにか新しいものを生み出そうとすれば莫大な物理的リソースが必要になる.

ただ,平均で見て新しい発見をもたらすのがますます高くつくようになってきている一方で,ぼくらの社会はますます豊かになってきたし,発明の継続に必要な支出がだんだん大きくなってきても,それをいっそう上手くまかなえるようになってきている.だからこそ,少なくとも短期的には,今後に発見されるべきネタもたくさん残っているとぼくは楽観視してる.

もちろん,それには正しい政策をとる必要がある――まだまだ発見すべきものがたくさん残ってると保証してくれる外部性は,同時に,発見がなされないかもしれない理由にもなってしまう.とくに,ぼくが懸念してることが2つある.第一に,豊かな国々で政治的な混沌と分断が生じることで,これまでよりも研究開発への資金提供に及び腰になるのを懸念してる(とくにアメリカで)――すでに,気がかりな兆しがあれこれと出てきている.たとえば,超党派の CHIPS 法案による科学研究資金提供を議会がなかなか通せずにいたことがその一例だ.そして第二に,中国による知的財産窃盗はすでにものすごく大きな割合にまで達していて,他の国々による発明からのリターンが下がっているほどだ.

というわけで,ぼくは意欲の面でのテクノ楽観主義者だけど,この意欲こそがぼくらには必要で,しかもこれはそうそうかんたんに奮い立たせられるものじゃない.

Art by @terrorproforma

テクノロジー進歩への「総員持ち場につけ」アプローチ

テクノロジーの進歩を維持するのはとても難しいから,うまくやるためには社会全体による取り組みが必要になる.大企業だけや,ベンチャーキャピタルに資金をえたスタートアップ企業だけや,大学でだけや,政府だけでうまく扱える代物じゃない.こういういろんな発明の主体は,それぞれにテクノロジーのいろんな分野に力を注いでいて,それぞれでインセンティブ構造もちがっている.だから,これら全部が必要だ

それに,テクノロジーをいざ実地に利用する段階では,いっそう幅広くいろんな制度が必要になる.グリーンエネルギーの各種テクノロジーがすばらしく安価になろうと,それを建設するために NEPA を可決できなかったらなんにもならない.かつて,ソ連は他に先駆けて宇宙に進出したけれど,ソ連の宇宙プログラムはその市民の助けにはならないかった(そこがアメリカとはちがう.アメリカでは市民の助けになった).

テクノロジーを前進させるために必要な各種制度の数々は,驚くほど幅広い.マークは,例のマニフェストでいろんな「敵」を列挙してる――敵と言っても人間ではなくて,テクノロジーの成長を制限していると彼が考えてるいろんな考え方や制度のことだ.そのなかには,「脱成長」論のように,テクノロジー進歩の敵と言ってもいいものもある.でも,彼が考える「敵」のなかには,ぜんぜん敵なんかじゃないものも含まれている.敵どころか,発明をいっそう急速に進める原動力に取り込まれる必要がある重要な制度も,彼の言う「敵」のリストには入っている.たとえば,こういうのがそれにあたる:

  • 国家主権と中央計画

  • 官僚制度

  • 独占

テクノロジーの進歩を加速させるために政府が重要な理由についてはすでに語った.この点について具体的に考えてみたら,公共部門と民間部門の協力関係がなかったテクノロジーの画期的進歩はなかなか思い浮かばないはずだ.コロナウイルスのワクチンや,それに端を発する mRNA 関連の発明という大波も,そういう事例の最新版にすぎない.もっと昔を振り返れば,マンハッタン計画によって原子力時代の幕は開いた(そして政府による資金提供は原子力にとって決定的に重要だった)し,ヒトゲノム・プロジェクトによって遺伝学革命がはじまったし,DARPA はインターネット創出の一助になったりと,事例は次々に挙げられる.NSF, NIH, DARPA, BARDA, NASA, 国立の色んな研究所……どれもが,発明の行進を前進させてきた歴史をもちあわせている(アメリカにとって大きな便益をもたらしたことも多い).これは,伝統的なソ連方式の「中央計画」とはちがう.たしかに,ソ連の中央計画は国家統制的だった.

官僚制について言うと,たしかに,テクノロジーの進歩にとって害になる場合もときどきある.でも,正しく行えば,官僚制は大きな助けになる.たとえば,NEPA(国家環境政策法)を見てみるといい――この法律によって,いろんなプロジェクト〔ビルを建てたりなど〕を市民が法廷に縛り付けて何年も遅延させられるようになった.あらゆる環境保護関係の法律の規定を満たしていても,プロジェクトを進めるには大変な量の書類を出さなくてはいけない.合衆国内で物理的なテクノロジーを築き上げていくぼくらの能力を,どれほど損なっていることか.NEPA みたいな法律に代わる案は,プロジェクトが環境保護の各種法律を満たしているかどうか迅速に判断して,合格ならすぐに認可できる有能で効率的な官僚組織だ.だからこそ,国家の稼働能力 (state capacity) が決定的に重要だってことを認識するリバタリアンたちがだんだん増えてきてる.

最後に,独占について.たしかに独占が経済活動を窒息させてしまうことがよくある.でも,ぼくらが手に入れたとびきり重要な科学的発見や画期的発明の多くは――情報技術革命に不可欠な柱であるトランジスタや生成AIなども含めて――巨大な独占企業の企業内研究所からもたらされたって事実は無視しにくい.ベル研究所の発明の歴史は伝説になっているし,Google が AI基礎研究で圧倒的な存在となっていたこともいつか伝説として語られることだろう.さて,ここが大事なんだけど,ベルも Google も,なるほど独占ではあったけれど,自分たちがなしとげた発見の利益をあらかた独り占めする結果にならなかった.ベルも Google も独占で,研究資金を出すだけの利益の巨大な余裕があったから,テクノロジーの発明についてまわる外部性の問題を一時的に無視して,利潤追求企業というより政府の研究所や大学みたいにふるまうことができた.

というわけで,「テクノロジーを前進させるのはガレージでわちゃわちゃやってる発明家たちであって,政府や大企業はたんにそういう発明家たちの仕事に寄生してるだけだ」なんて考えてる人は,ひどく考え違いをしてる.それに,「テクノロジーは政府の計画立案者たちによってのみ前進させられるのであって,民間部門はたんに政府の尽力に寄生してるだけだ」なんて考えも,同じくひどい間違いだ.テクノロジーについてまわる外部性の問題はとても根深くて複雑だから,社会は発明に取り組むにあたって「総員持ち場につけ」アプローチをとる必要がある――多種多様な制度はお互いに補完・補足しあって,おたがいにテクノロジーの境界をちがった方向へと拡大させ,応用が利く段階になったらいっしょに取り組まないといけない.


Art by @terrorproforma

社会はテクノロジーの UX(ユーザーイクスペリエンス)

テクノロジーと社会とが根本から競合してると考えてるらしい人たちの数ときたら,絶望的なまでに多い.一方には不道徳な科学者たちと強欲な ITニキ (techbro),もう一方には社会的責任とより大きな善の勢力がいて,競り合っているんだと考える世界観では,テクノロジー推進者たちは根っこの部分で海賊みたいなタイプであって,彼らが公海へ略奪にのりだす一方で,社会的責任の海軍がこのならず者どもを取り締まるべく追いかけ回してるんだと思われている.

ぼくの考えでは,こんな風に物事を見るのは見当違いだし,骨折り損だ.なぜって,さっきも言ったように,テクノロジーは根っこの部分で人間らしい企てだからだ――テクノロジーは,人間社会が集団として利用できる選択肢を増やす.

これには,2つのことが付随する.第一に,新しいテクノロジーをつくりだすことの根本的な目的は,社会の能力を高めることにあるってこと.新しいガン治療薬や新しい画像認識 AI や新しい半導体製造プロセスにとりくんでいる人は,そうすることで,社会により多くの選択肢を与えようとしている――人々が受けられる癌治療がどれだけあるか,よりよい画像検索システムをつくるかどうか,〔感染症の〕よりよい悉皆監視・追跡の実装をつくるかどうか,どれだけの計算機をつくって,それらをなんのために使うか,などなど.こうした選択肢のどれを選ぶかは,社会に委ねられている.発明に取り組んでいる人なら,その人は力を自分のものにしようとしているのではなくて,力を社会のものにしようとしてるんだ.

科学者たち・エンジニアたちが特定のテクノロジーをつくるのを拒絶するように説く有名な主張にはいろんなものがある――核兵器をつくるのを拒絶しようとか, AI をつくるのを拒絶しようとか.そうした有名な主張のどれもが,共通して,こんな発想にもとづいている:「そういうテクノロジーの利用法についてよい選択をする能力が,社会にはない.」 個々人の方が(当事者の科学者たちや発明家たちの方が)よい判断をする条件を備えている.ひとたびなにかを発明したり発見したりすると,その使い方は発明や発見をした当事者の手から離れる.だから,テクノロジーに従事する人たちが社会の意思に抗する唯一の方法は,開発を拒絶することなわけだ.発明には,社会への信頼が欠かせない.その一方で,信頼が欠けていると,最終的には進歩を減速させようという欲求が生じてくる.

社会とテクノロジーとを分離できない第二の理由は,さっき述べたより広い意味で,他でもなく社会がテクノロジーだってことにある.もっと限定して言うと,社会は,他のいろんなテクノロジーのユーザーイクスペリエンス (UX) だ.テクノロジーがもたらす力を個々の人間がどう経験するかを,社会が決定するんだ.

この点を理解するには,デジタル監視テクノロジーを考えてみるといい.アメリカと中国では,監視テクノロジーの使い方がものすごくちがっている.アメリカでは,ウェブカムを使ってペットのうさぎを見守ったり,愉快な動画を撮影したり,ゲームプレイの実況をやったりと,いろんな楽しい目的に利用してる.他方で,中国では,そういうこともできるけれど,その際のプライバシーはずっと少ない.国家がいつも監視してるからだ.そういう個別の愉快な利用法に加えて,中国ではネットワークカメラを用いてデジタル版のパノプティコンをつくりあげている.これによって,国家のにらみから市民はまったく逃れられない.中国のいろんなマイノリティ集団にとって,このパノプティコンの恐ろしさときたら,ジョージ・オーウェルの小説にも劣らない.

つまり,悪しきことではなく善いことにテクノロジーを使うのは,社会の責任だってことだ.ときに,善いことに使うにはどうしたらいいか探り当てるまでに長い時間がかかることもある――印刷機みたいな出版メディアのテクノロジーがはじめて世の中に登場したときには,大変な混乱と諍いが起こった.責任を持ってそうしたテクノロジーを使う方法をぼくらが学ぶには,とにかく時間をかけるしかなかった.工場労働を地獄のようなものから許容できる程度のものに変える各種の労働規制も,食肉や乗用車や旅客飛行機を一般市民にとって安全にする各種の消費者保護策も,空気や水をきれいにする各種の環境規制も,実施するには長い年月がかかった.それに,その過程では多くの過ちもぼくらの社会はやらかしてきた.

それでも,たしかに困難な過程ではあるものの,これはどうしても必要な過程だ.テクノロジーの目的は,人間を益することにある(願わくば,いつの日か動物などの感覚を有する存在も益してくれるといいな).そして,社会の役割は,そういう便益を広く分配する方法をつきとめることにある.もちろん,発明の支援をする役割を社会が果たすのは前提として,そのうえでのことだ.

つまり,テクノロジーと社会のあいだに境界線はない.どちらも,ひとつの統一体の一部をなしている――「テクニウム」そのものよりもいっそう広い範囲を射程に入れた存在の一部をなしている.社会もテクノロジーも,人類という有機体を構成する要素だ.

Art by @enterlinkart

持続可能性はテクノロジーだ

最後に,持続可能性についてひとつ言っておきたい.あのマニフェストのなかで,引用符つきの「持続可能性」のことを,マークはテクノ楽観主義の敵に数えている.ただ,持続可能性の旗印で脱成長の思想を隠している人たちのことをマークは指しているのかもしれないけれど,実際の持続可能性はテクノ楽観主義の敵じゃない.敵どころか,テクノ楽観主義の中核を占めている.果てしない未来までテクノロジーに立脚した社会を維持していられること,それじたいが発明の根本的な目標だ.そして,ほぼつねに,その維持を成し遂げる方法は発明を増やすことであって,減らすことではない.

架空のちょっとした単純な例を考えてみよう――人間の小集団がくらしていて,果樹園が彼らの暮らしを支えている経済があったとしよう.この人たちは,果物の種まで食べたりはしない.種はそのへんに蒔かれるか,消化器官をくぐり抜けたあとで新しい果樹の肥やしになったりする.この小さなサイクルは自足してる.ところが,この人たちが新しいテクノロジーを発明する.これを使えば,種を調理して消化できるようになる.すると,これによってこの人たちのカロリー摂取量は短期的に増加する.かりに GDP と消費を計測していたなら,きっと,どちらも増加が認められるはずだ.でも,種を調理すると果樹の再生産がさまたげられてしまうから,やがては果樹が死に絶えて,この人たちは飢えに苦しむ羽目になる.あらあらまあまあ.

さて,この問題の解決法はなんだろう? 残念な解決法は,脱成長だ.とにかく種を調理するのをやめてしまえば,かつての均衡にもどってそこに安住できる.でも,それよりもっといい解決法がある.それは,テクノロジーをもっと増やすことだ.種をもっとうまく新しい果樹にまで育て上げる方法を発明できたなら,種の一部を今日調理して食べつつ,残りをうまく管理して投資し,果樹園をいつまでも維持していける.テクノロジーが問題をもたらしたのは事実だけど,でも,やがてはテクノロジーが彼らを問題から救い出してくれる.

というか,この種の発明はごくありふれていて,たとえば化石燃料にごく密接な類例が見つかる.自然は人類にありあまるほどの石炭・石油・天然ガスを与えてくれた.でも,やがてはそういう化石燃料も採掘が高くつくようになっていく――気候変動の影響を度外視してもなお,そうなる.テクノロジーによって,しばらくの間は採掘を安上がりにできるけれど,いつかはそれにも限界がくる.でも,化石燃料が可能にしてくれたこの工業社会を利用してもっと安定した代替方法をつくりだせば――太陽光発電がそういう方法だし,いつの日か核融合も実用化されるかもしれない――ひたすら化石燃料に頼り切ったままでいるよりもはるかに長い間にわたって,この工業社会を維持できるようになる.

もっと一般的な話をすると,テクノロジーの進歩とは,ひとえに,今日よりも明日をもっとよくすることを目指すものだ.明日がなければ,今日の意味なんてずっと小さくなる.考えもおよばないほど輝かしい未来が約束されているからこそ,今日,ぼくらは発明にいそしんで限界を超えていこうとするわけだよ.この論点は,タイラー・コーエンが著書 Stubborn Attachments で力強く説得力たっぷりに論じている.ぼくらは,たんに自分のためだけに発明をするわけじゃない.自分と,後の人たちのために,発明してるんだ.

テクノ楽観主義の敵は,持続可能性じゃない.敵は,近視眼だ.人類は,四半期ごとの売り上げをかさましするために新しいものをつくりあげるべきじゃない.ぼくらの子孫のためにつくりあげるべきだ――どんなかたちで実現するにせよ,子孫たちがこの世界と星々を手にすることができるように.そして,この世界と星々を永遠に手にしていようというなら,それをダメにしないように気遣わないといけない.まずは,いまぼくらが座しているところから手をつけよう.

テクノ楽観主義は,今日のいろんな制度についての主張につきるものじゃないし,今日の資源の配分についての主張につきるものでもない.テクノ楽観主義は,人類への信頼だ.人類が――そして感覚をもつあらゆる存在が――無限の明日へと進み続けるという信頼なんだ.

Art by @SmokeAwayyy

Art by @emikusano


Art by @terrorproforma

[Noah Smith, "Thoughts on techno-optimism," Noahpinion, October 21, 2023]

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