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心が楽になるってどういうことか

先日。とある所での対話テーマ「心が楽になるってどういうこと?」について、ところどころ考えています。

仕事柄「話して心が楽になりました」というコメントをもらうことがあります。それは直接的解決に至らずとも、話を聴くということでその人が一人で抱えていた何かを一旦下すことに繋がって少しでもお役に立てたのかなという気持ちもあるが。
解決しているわけではないので、その場のストレスを一時期的に緩和させているような状態は対処療法的で根本解決ではないことにモヤっとすることもあります。

「話して楽になる」は「心が軽くなる」と表現することもあると思うのですが「話したこと」には物理的重さは無い(たぶん)。
楽になっているのは気持ちの持ち具合なのだけど、その人の動きが軽やかになる、といった副作用的現象もあると思うと実は物理的な重さが存在するのかも?!と妄想もしていました。

自分はどうだろう?

わたしが困ったことや悩みを話したい、と思う時。
話して楽になる、という感覚とは少し違っているなとまず思いました。
話すという行為への反応が自分の思考を動かす刺激になって、自分だけでは見えない方向に目を向けるきっかけにしている節があるのです。
これは楽になっているのかというと、結果的に楽になることもあるけど。
直接の目的ではないです。

では、わたしにとって「心が楽になる」というのはどういう状況だろう?
どういうことが起こると(あると)心が楽になるだろう?
例えば、うまくいかない、モヤモヤする、無意識も含めてストレスを感じている状態からの変化。
自分の方向性が明確になったとき。
安心感。
繋がった、通じた、受け入れてもらえた、分かり合えた(とわたし自身が感じた)。

そして、こんなことを考えている時は答えが明確に出てこなくてモヤモヤしている部分もあるけれども、心が重い状態ではないということを感じたのでした。

考えることはこれからも続く。

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