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#16 「 歌声 」

部下との他愛もない昔話を引きずりながらサッシを開けてベランダに出る。
朝から降っている雨の音に邪魔されて話の内容は曖昧になり、俺は等閑なおざりな返事をしたが聞こえてはいないだろう。
雨が1月の空気をさらに冷やし、息は吐くそばから白くなる。
後ろ手でサッシを閉めると会話は完全に途切れた。
スーツの上着から煙草を取り出して火を点ける。
深く吸いみ、ゆっくりと吐き出すと、全てが白い。
雑居ビルの3階から見える景色は代わり映えするでもなく、見上げる空はまだ午後3時だというのに鈍色にびいろで重たすぎる。
狭い道路を挟んだ斜向はすむかいで始まった大規模な再開発の1期工事も、雨のせいか重機の音は聞こえず休工のようだ。

路地から3人の小学生が出てきた。
俺はそのうちの一人を目で追う。
その少女は、いつものようにT字路で別れる2人の背中を見送くると、いつものように小さく歌いはじめる。
赤いランドセルを背負しょって、長靴とお揃いの黄色い傘をくるくると回しながら歌っているその歌が、学校の教科書に載ってるものなのか、最近の流行はやりのものなのか、音楽に疎い俺にはわからない。
だが、いつ聴いても少し舌っ足らずな歌声が、耳に心地よい。

この歌声との出逢いは半年ほど前だろうか。
歌はやはり俺の知らない歌で、曲の調子がいいからか、良いことでもあったのか、どこかぎこちないスキップを踏みながら歌っていた。
俺は吸いかけの煙草を揉み消して、ベランダの隅に身を隠した。
少女が俺に気づいて歌うことを止めてしまわないように。
しかし、少女はこのビルの真下まで来ると、ふっと立ち止まり口を閉じた。
俺に気づいたのか?
少し残念な気持ちになった。
と、少女は両肩で1拍リズムを取ると、また歌いはじめた。
どうやら歌詞をど忘れしてたようだ。
俺は煙草に火を点けて、姿が見えなくなるまで少女の歌声を聴いていた。

雨は止みそうにない。
俺は目の端で少女を追いながら2本目の煙草に火を点けた。
少女がいつもよりゆっくりと歩いているのは雨のせいだろう。
今日、歌声を聴くことができてよかった。
コツンとサッシをノックする音がして顔をそちらに向けると、若い部下がケータリングの到着を知らせる。
そうだな。
あと2時間もすればここともお別れだ。
室内に積まれた段ボールは明日のうちに運ばれて、週が明ければ新しい事務所での仕事が始まる。
2期工事に仕分けされたこのビルは、来月の終わりには取り壊されて無くなっているだろう。
新しく建つビルへの優先入居を打診されたが、バカ高い家賃に鼻をつまんだ。

12年間、毎日通った場所だから愛着はある。
だが、未練はない。

ただ、少女の歌声を聴けなくなるのが心残りだ。



< 了 >

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