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坂本龍一さんの人生に思いを馳せることにしました【ピアノ作曲、始めて辞めた!】

失ってから初めて、大切なものに気づく。

よく漫画や小説などで聞く言葉ですよね。
自分の過去を振り返ってみると、もう読まないだろうと実家に送った本が、送った瞬間に読みたくなる時があります。

漫画の人生をかけた勝負をしている主人公たちに比べると何とも程度は小さいですが、規模感はどうであれ、真理だと思います。

さて、本題ですが「坂本龍一さんの人生に思いを馳せることにしました」の2回目【ピアノ作曲、始めて辞めた!】です。

初回はこちら。

タイトルのままですが、今回は坂本龍一さんがピアノと作曲を始めたエピソードを書いていこうと思います。

【ご注意事項】
この文章は坂本龍一さんの著書『音楽は自由にする』を元に、個人的に解釈したことを記載しています。
 
1人の人間の人生を100%理解できるわけではないことも重々承知しておりますが、坂本龍一さんの素晴らしさを理解し、自分の文章で表現していこうと思った次第でございます。

誤った点などもあるかとは存じますが、どうかご容赦ください。



***
1958〜1965

1、ピアノ・作曲始めました

小学校に入ると、先生についてピアノを習い始めることになりました。

(坂本龍一(2009).『音楽は自由にする』.新潮社.p30)

坂本さんが本格的にピアノを習い始めたのは小学生の頃、先生は徳山寿子さんという先進的でハイカラ(※1)な明治の女性です。

徳山先生は厳しいながらも非常に音楽に対して熱心に、面白おかしく教えてくれるピアノの先生だと坂本さんは記しています。
例えば「徳山寿子のキッチン楽団」という身近な台所用品を使って楽しく演奏をしたり、「スコア」と呼ばれる楽譜を用いて、実際に曲を聴きながらそのテーマを探ったり、など、前者はとても楽しそうですが、後者は小学生にとってかなり難しそうですね。

もちろん、坂本少年もスコアの授業は難しかったようですが、徳山先生に教えてもらううちに、音楽を分析的に聴こえるようになってきたと振り返っています。

個人的に坂本さんの著書をいくつか拝読して、音楽を本能だけではなく、理論的に捉える方だなと思っていたので、何となく伏線回収された気がします。
徳山先生の授業が、少なからず坂本少年に影響を与えていたのでしょうか。

小学校5年生の時に、徳山先生に「別の先生のところで、作曲をやりなさい」と言われたんです。

(坂本龍一(2009).『音楽は自由にする』.新潮社.p38)

徳山先生の熱心な勧めにより、坂本少年は松本民之助先生の下で作曲を習い始めました。
東京芸術大学の作曲家の先生で、とても迫力のある先生だったそうです。

こうして着実に音楽に関わる人生を歩み始めた坂本少年は、ピアノ・作曲を習う過程で様々な音楽との出会いがありました。

あ、ちなみに練習は嫌いだったそうですが。

今でもそうですが、ぼくは本当に練習が嫌いなんですよ。

(坂本龍一(2009).『音楽は自由にする』.新潮社.p34)

ぼくは昔から、ピアノの練習が嫌いでした。

(坂本龍一(2023).『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』.新潮社.p51)


※1 ハイカラ:<high collarから>西洋ふうをきどったり、流行を追ってしゃれたりするさま。また、その人。
(山口明穂.和田利政.池田和臣編(2013),『旺文社国語辞典[第十一版]』,旺文社,p1170)

2、様々な音楽との出会い

ピアノや作曲を習う中で、坂本少年は様々な音楽と出会い、影響を受けてきました。
バッハやビートルズ、ストーンズなど。

なぜバッハが好きか、叔父さんに説明したことがある。
(中略)
左ぎきだったからかな。だから左手が異常におとしめられてることに対して反発があったんじゃないかな。

(坂本龍一・後藤繁雄(2015).『skmt 坂本龍一とは誰か』.筑摩書房..p30)

バッハ(※2)とは18世紀に活躍した作曲家です。
坂本少年は普通の右手がメロディー、左手が伴奏というピアノ曲とは異なり、バッハの左手と右手が常に役割を交代しながら、同等の価値を持っている曲がとても好きだったそうです。

上述したように坂本少年が左利きだったことが理由の一つかもしれません。

ビートルズ(※3)は多くの方が知っている、イギリスの超有名なバンドです。
坂本少年はビートルズの洗練された美しいハーモニーを好み、自分で弾きながら分析していたそうです。

ストーンズもザ・ローリング・ストーンズ(※4)と呼ばれるイギリスのバンドです。
(『音楽は自由にする』にはストーンズのみしか記載がなかったため、あくまで推測です。)
ストーンズの荒っぽいパンクな曲も好きだったそうで、後々の時代を先駆けた前衛的なものを好む傾向はストーンズから影響を受けているかもしれないと振り返っています。

新しいことを始めていく中で様々なものに出会い、それが後の人生に影響を与えている。
「坂本龍一」という人間を形作るものを少し垣間見れたような気がします。

※2 バッハ:

※3 ビートルズ:

※4 ストーンズ:

3、ピアノ・作曲辞めました〜モテたい!〜

タイトル通り、坂本少年は中学校に入学してピアノも作曲も辞めました。
理由はモテたいから。

入学してすぐ、バスケットボール部に入りました。そのころは背が高かったから、というのもあるけれど、やっぱり、バスケ部というのは一番モテたから。

(坂本龍一(2009).『音楽は自由にする』.新潮社.p50)

辞めた理由はバスケ部に入ってモテたいから。ああ、青春だなあと思います。
学生の時はとにかくモテたい、目立ちたいという気持ち、何となく分かります。
(今ではそれが黒歴史になっているのでそっと記憶の蓋を閉じていましたが、思い返すとやっぱり小っ恥ずかしいですね。)

親や先生と大揉めの末に、ピアノも作曲も辞めたものの、しばらくして坂本少年の中で何かが欠けているなと思い始めました。

「音楽が好きなんだ」ということに気づいたのです。

坂本少年は徳山先生と松本先生に再びお願いして、もう一度ピアノと作曲を始めました。
冒頭にも戻りますが、この体験が坂本さんにとって「失って初めて大切なものに気づいた」瞬間なのではないかと思うのです。

***
いかがでしたでしょうか。

今回は坂本さんのピアノ・作曲を習い始めたエピソードをつらつらと書いてみました。

練習は嫌いでモテたいという思いを持つ坂本少年、やっぱり嫌いにはなれないものです。
けれど、俗っぽさを持つ反面、音楽に対して興味関心を持ち続ける姿勢には尊敬するばかりです。

私の大切なものは何か、坂本さんの人生を追いながらつい考えてしまいます。

最後までお読みいただきありがとうございました。
次回も気長にお待ちいただけますと幸いです。

***
【参考文献】
・坂本龍一『音楽は自由にする』(2009年、新潮社)

・「<あのころ>キッチンオーケストラ 台所用品で音楽教育」. (参照 2023-08-12 )

・坂本龍一『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』(2023年、新潮社)

・坂本龍一、後藤繁雄『skmt 坂本龍一とは誰か』(2015年、筑摩書房)

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