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雑記帖:20230815

関わる人を変えないと駄目かな。
今のままでは先行きが暗い。

行動し、その状況を体感する
関わる人を変えたい
他者との関係を大切にする。

自分自身が感じたことを表現すればいい。

やる気が出る音楽

気持ちがポジティブすぎるのかもしれない。
人の心はもっとネガティブなのかもしれない。

ネガティブに生きる必要はないが、ネガティブな人も世の中にいることを忘れてはならない。
ポジティブすぎるのかもしれない。

もっと他者に要求してもいいのかもしれない。

まだまだ殿様商売なのかもしれない。
現実はもっとネガティブなのかもしれない。
要求がましく。
クレクレ星人でいいのかな。

Giver&Taker

不要な物には鐚一文(びたいちもん)支払わないのが基本である。

どうすればこの生活から抜け出せるのだろう?

ウインドウショッピング:ショウウインドウなどに陳列されている品物を見て歩いて買い物気分を楽しむこと。

今の私には現実感(生活感)がないのかもしれない。

まともに働けるだろうか?
今からでもまともに働けるだろうか?
奴隷根性が抜けないと、生活苦から抜け出せない。
なぜみんな奴隷になりたがるのだろう?
少しは反発しろよ。

感覚的なものできまっているとすれば、相手に対してできることは今の私には何もない。
その人の持つ感覚で全てが決まるのだろうか?
感覚的ものだとしたら、手の施しようがない
この感覚の違いは一体何なんだ?
すべて感覚できまるのだろうか?
無理に合わせる必要はない。
わからなければわからないままでいい。
無理に理解しようとしなくていい。
何れ氷解する時が来る。
それがあることを知っているだけでもいいのだ。

どうすればお金を稼ぐ力が備わるのだろう?

私は気軽な人間関係が好きだ。
気軽な人間関係を築くためには、相手に頼ってはいけない。
運命共同体的な人間関係を求めている人は正直苦手だ。
ストロングタイズな強固な人間関係、強い絆を求める関係には興味はない。
自由がないからだ。
それよりも、ウィークタイズな軽めの人間関係を私は好む。
他者に依存している人間にはウィークタイズな人間関係は構築できないだろう。
ある意味、大人な関係である。
子供のように親に養ってもらうような関係ではない。
自由な人間関係には、個々の強さも必要である。
私は薄く広い人間関係でいいのだ。
狭く深い人間関係は望んでいない。
親友なんていなくていいのだ。
誰とでも気軽に話せればいいのである。
だから本音の会話はできなくてもいいのだ。
建前の会話だけでも十分である。
本音を語ることを要求しないし、私も語らない。
敢えて言葉にする必要はないのだ。
表情とか文脈とか、そういった情報から類推される情報だけでいいのだ。
正解なんて求めていない。
誤解が生じてもいいのだ。
分かり得ないことが前提なので、別に気にならない。
気が合わなかったと思えば、それで済む話だ。
分かりあうとしなくていいのだ。
分かりあえなくても、相手を攻撃しない勇気をもつ。
分からない相手を攻撃する人間とは距離を置く。
人間としての存在をまずは認める。
言葉にその人の情報を置き替えるには時間が掛かるだろう。
それでいいのだ。
簡単にわかろうとしない。
わかるわけがないのである。
わかりたいのは、自分が考えることを放棄しているからである。
相手をそういう人間と決めつけたいだけなのだ。
その方が楽だからだ。
人間関係に気分次第。
その時の気分次第でいいのだ。
寛容なときもあれば、不寛容な時もある。
生き物なんだから、それでいいのだ。
人間を機械と勘違いしている人もいる。
相手に恒常性を求めるならば、ChatGPTと会話してればいい。
常に“正解”を答えてくれから。
人間は気分次第で返答が変わるから面白いのだ。
同じ質問しかできない自分自身の愚かさを恥じた方がいい。
一義性や厳格性を相手に要求するならば、数式でも覚えた方がいい。
会話の中で答えが変化するから楽しいのだ。
誘導尋問のように予め用意した答えに相手を誘導するやり方は好きになれない。
そういう人は他者と会話するべきではない。
答えありきならば、会話なんてしなくていい。
会話は化学反応みたいなものだ。
自分自身の想定が相手との対話で変化するから面白いのだ。
変化を望まないのに、なぜ相手に対話を求めるのだろう?
不思議で仕方ない。
それとも優劣を競っているのだろうか?
弁論大会の延長なのだろうか?
優劣を競うだけの人生は味気なさそうである。

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