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いま必要なのは「過剰さ」なんだよ

別に一角の人になりたいわけじゃない。そんな欲望は、微塵もないと断言していい。でも、人と同じことを同じようにやるのは、やっぱり楽しくない。そんな退屈さには耐えられない。自分に固有の、自分自身を納得させられるような何かさえあれば、他にどんなことがあってもブレないでいられると思うし、楽しく過ごしていける気がする。いや、絶対そうだと確信している。そして、そのようなブレない自分固有の軸は、「過剰さ」からしか生まれない。人目を気にして常識の範囲内に収めてしまったら、その辺に転がっているものとなんにも変わらない。側からみたら「なんでそこまでやるのか分からない。偏愛だ」と思われるくらいでないと、意味がない。バランスを取ろうして体裁を整えようとしている時点でアウト。醜いくらいがちょうどいい。そうじゃないと、ぼくはぼく自身を納得させられない。

いまは、他人に優しくすること、というか、他人に介入しすぎないことが美徳とされる。ヤマアラシじゃないけれど、やっぱり人間も近づけ近づくほど相手を傷つけてしまう可能性が高まる。個人的な意見としては、人間はどれだけ丁重に扱っても傷つくので、傷つかない方法を模索するよりも、傷ついた後にどうやってその傷と向き合っていくかを考えることの方が大事だと思っているのだが、それはまた別の機会に書こう。ここで言いたいのは、もう誰も、外から自分に「過剰さ」を求めてくれないということだ。だから、自分で自分に求めるしかない。でも、自分で自分を統治する、というのはそう簡単な話ではない。怠けてしまうのが人間の性。というか、ぼくの気性。本当は、誰かに「おい怠けるな」とお尻を叩いて欲しい。困ったもんだ。

でも、裏を返せば、それだけ「過剰さ」が貴重になっている時代だとも言える。脇目もふらず、やりたいことを一生懸命にやる。寝食を忘れてやる。何ヶ月も、何年も継続する。そうすればきっと、その人にしか見いだせないものが生まれてくる。ぼくはそう信じている。

なぜ「過剰さ」が必要なのか。一度きりの人生、悔いなく生きたいからだ。過剰さを持つ人をおもしろいと思うし、ぼく自身も自分で自分をおもしろがれるようになりたいからだ。自分で自分を納得させるためには、過剰になるしかない。

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