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結局、最後に「納得」できるかどうかの問題だと思うんだ。

あまりに時流に乗りすぎていて気恥ずかしいが、AIの話をしたい。

AIがすごい。ぼくなんかより、みなさんのほうが知っているかもしれないが、とにかくすごいんだ。たぶんこの先数年、想像もできないほどに発展していくんだと思う。そして、必ず懸念されることは、人間の仕事がAIに奪われるのではないかということ。特に大規模言語モデルや画像生成AIの存在は、創作する人にとって特に脅威だとされている。

AIが文章を書き始めた。写真や動画を生成し始めた。人間が作ったのと遜色ないほどの小説や映画だって、作れてしまうかもしれない。

でもね。AIによって作られたもので、果たしてぼくらは満足できるのだろうか。ぼくの答えは、満足できる人とできない人で二分されることになるぞということ。

AIが生成した実写映画を楽しめる人もいると思う。でも楽しめない人もいる。ぼくらは映画を観るというときに、ただ単にスクリーンに映っているものを受け取っているわけではないからだ。あの俳優が好き、演技が上手い、脚本家の意図が見える、監督の撮り方が絶妙等々。必ず作品の背後に、作家や人間を見ているのだ。これはアニメーションでも、小説でも、写真でも、同じことである。背後に人間を感じられなければ、心が動かない人が一定数いる。

何度も言うようだけど、そんなことは関係なしに、楽しめる人もいる。その違いは二次元のキャラクターに恋できるか、できないかで人々が二分されることと同じだと思ってもいい。

相変わらず、生身の人間にしか興味を持てない人もいて、今後もそういう人は残り続けるのではないかと思う。同じように、作品の背後に人間を感じられるものしか受け入れられない人間がいる限り、人間による創作はなくならない。

もう少し。こういう場合を想像してみてほしい。一見、人間が作ったようにしか見えない映画を観る。すごく心を動かされる。みてよかったなと思う。しかし、本当はAIによって脚本がかかれ、AIによってカット割が決められ、AIによって演出されたことがわかる。

ぼくらの反応はおそらく二分する。「ふざけんな。感動を返せ」となるか「だとしても、いい映画だったな」となるかだ。別にどっちが正しいとかではない。どっちもあっていいのだ。

結局何が言いたいのかといえば、AIに関する諸問題は大方「人間が納得できるかできないか」に行き着くということだ。

友達や彼女とやりとりしているつもりだったけど、実はAIが返信していた。面白がって読んだ小説は実はAIが書いていた。zoomで話した取引先の人が実はAIだった。新聞の記事のいくつかは実はAIが書いていた。ドラマチックなWBCの動画も、実はAIが生成したフィクションだった。信じていた占い師の占いは、実はAIのものだった。

なんでもいいんだけど、だいたいは、最後にぼくらが納得できるかどうかの問題なんだと思う。

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