小説・うちの犬のきもち(12)・桜の季節
最近のママン、平日の帰りは遅いけど、土曜日と日曜日をちゃんと休んでいる。どういう事情があったのかは知らないけれど、そういうのって悪くないと思う。
だから、金曜の夜、寝る前に、ママンの横でじっと伏せをしてママンを見つめてみる。そうするとママンが「どうしたの、しーちゃん」と聞いて撫でてくれるのだ。撫でてもらったら、ころんとしてお腹を見せて、寝落ちするにまかせる。ママンがスマホをいじったり、文庫本を読んだりしながら撫でているときは、後ろ足でちょいちょいとママンに知らせる。
「ごめんごめん、しーちゃん」
そうすれば、ママンは寝かしつけに集中してくれる。ときどき、こういう要求をしても良いだろう。翌日の土曜日の明け方、ぼくは目を覚ます。パパンもママンもまだ寝ている。ママンの手をペロっとしてみる。でも、ママンは起きない。だからママンの足もとにもどってまた寝る。ときどきママンがむにゃむにゃ言いながら、手を伸ばしてぼくを撫でてくれる。
土曜日の朝はスマホのアラームも鳴らない。パパンもママンも、別の部屋のおばあちゃんものんびり起きる。ぼくはそれを待っている。
ーー辛抱強く?
そんなことはない。ぼくだってみんながのんびりした時間を過ごすことを楽しんでいる。
パパンとママンが起きて、公園に桜を見に行ってみようかと話している。
雨の多い日が続いて、ここのところいつも地面は濡れている。地面が濡れているときはあまり長く歩きたくない。パパンがひょいっとぼくを持ち上げて、桜がたくさん咲いている公園まで運んでくれる。
「桜、満開だねー」
「晴れていたらもっといいのに」
「しーちゃん、こっち向いてー」
パパンが桜とぼくが良い感じに写真に映るように向きを変える。でもぼくはそのたびにプイっと他所を見る。前も言ったかもしれないけど、写真を撮られるのはあんまり好きじゃないんだ。
「うーん、天気もイマイチだし、しーちゃんはあんまり良い表情じゃないけど・・・ま、いっか」
ママンが納得して、その日の散歩は終わった。
桜の季節は忙しない。
年末とは異なる忙しなさだ。年末年始に人の集まりをしない我が家では、年末に向けてドタバタと忙しくなっても、大晦日になると、ふっと気が抜けたように穏やかでのんびり過ごす。年明けもゆっくりとエンジンをかけていく。
桜の季節は、でも、ふっと気が抜けたようなときが来ない。この季節には、新しいことをたくさん受け入れて、そこから何ヶ月かかけてじょじょに慣れていく。新しいものを引き受けて、抱える、あるいは、支える重みがある。
たとえば、新入社員を受け入れて、緊張しているその人たちを励まして、五月くらいにその人たちが環境に慣れて、緊張が少しほどけ、個性が見えてきて、その個性にドキリとしたり、不安になったりしても、穏やかに受け入れる。
よくみればそれぞれがまったく違う。それぞれの新緑がのびのびと過ごせるためには、それから先、何か月、何年か(あるいは何年も、と言うかもしれない)寄り添い、声を聞いて必要なものを届け続ける、そういう重さのある忙しさだ。
成長というのは、本人がもっとも大変だと思うけれど、その汗や涙や喜びや笑いや怒りや悲しみや違和感やらを、傍らにいる人も感じるのだと思う。
ぼくが寄り添う家族、家、庭、散歩道……いわば世界、が引き受けた季節を、ぼくも引き受ける季節なのだ、と思う。
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