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幸せとは何か?

多くの人が幸せになりたいと考えているだろう。
そもそも幸せとは何だろうか?

幸せには狭い意味の幸せと広い意味の幸せがある。

狭い意味の幸せとは、個人的で本能的な欲求を満たすことである。
食欲・性欲・睡眠欲といった生物としての本能的欲求や権力欲や金銭欲といった誰もが多少なりとも持っている人間の根源的欲求の充足である。
しかし、それだけで人は幸せになれるだろうか?

イギリスの哲学者J・S・ミルが
「満足な豚より、不満足なソクラテスの方がよい」
といった。
つまり人は本能的な欲求の充足だけでは幸せにはならないだろう、ということだ。
豚は常に十分な餌を与えられ労働もせずにのんびり生きているが、そんな生活で人は満足しない。

人は自分らしくあることや他者と喜びを共有することを求める。
趣味に没頭することであったり、自らの成長を感じることに満足を覚える人もいるだろう。
そしてもっと驚くべきことは、間違っていることを正すことであったり、他人に喜んでもらうことを望むこともある、ということだ。
つまり自分自身の損得とは関係なく、何なら自分自身は多少損をするとしても、悪いことを是正しようと奮闘したり、他人や社会に貢献しようと献身することもある。

こういった自分の利益にならないことを実行し成し遂げること、これは「幸せ」のための行動といえるだろうか?
狭い意味の幸せでは、それは「幸せ」のためとは言えない。
それでも彼らは自分の意志で、それを選択した。

このような人間の自己犠牲的な行動は何を示唆するのか?
それは人生の行動選択の基準は、決して狭い意味での「幸せ」だけではないということである。
「正義」や「他人・社会への貢献」も生きていく上での重要な基準だ。
だから根源的欲求が充足されていない(恋人ができない、お金が無い)からと言って人生そのものが無価値になると感じる必要はない。

道徳哲学の大家であるカントは、生涯、出身地であるドイツのケーニヒスベルクで過ごし、終生独身を貫いた。
彼の道徳哲学では、道徳的であることは(狭い意味での)幸せを得ることにはつながらないし、そもそも幸せになるための行いは道徳的行為とは呼ばれない。つまり正しく生きたからと言って、幸せになれるかどうは別問題というわけである。
しかし彼は「Es ist gut」(これでよし)と臨終の言葉を残しこの世を去った。

確かに正しいことを貫いたり、社会に貢献することは、自分自身の幸せには直結しないかもしれない。しかし大半の人が悪いことをしてでも、他者を陥れてでも自分の幸せを得たいとは思っていないはずだ。
むしろ自分の利益が多少減ったとしても、正しい行いをしたり、他人に喜んでもらうことに満足を感じる人が多いくらいだろう。

だからこそ、モテない人生だった、貧乏な人生だった、仕事でも散々苦労した人生だった(もちろんモテて、金持ちで、仕事も楽しくこなす方がいいかもしれないが)としても、狭い意味の幸せ=自分だけの利得は一つの基準に過ぎず、それだけでなく他の基準を達成できたかどうかも考慮にいれた上で、自分の人生の評価をするべきだ。
そして総合的な基準で測った時に自分の人生に満足できるのであれば「Es ist gut」、つまり、あなたは広い意味で幸せであると言えるだろう。

※なお、カントは死に際にワインを飲んで「Es ist Gut」といったので、単に「おいしい」と言ったという説もあるようだ。


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