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トロッコ問題に関する考察 ~問題に潜む倫理的事柄~

はじめに

「トロッコ問題」とは倫理学に関する有名な思考実験的問題である。

A氏は線路のすぐ側にある分岐器の近くにいる。
すると猛スピードでトロッコが走ってきた。トロッコの行先の線路上には5人の作業員がおり、このままではこの5人は列車に轢かれて確実に死ぬ。
もしA氏が分岐器でトロッコの進行方向を切り替えた場合、その5人の命は助かるが切り替えた路線の先には作業員が1人おり、この者は轢かれて死ぬ。
これは功利主義と義務論の対立に関する問題であり、功利主義であれば1人の命より5人の命が助かる方がいいので進路を切り替えた方がよいとなり、義務論では誰かの目的のために誰かを利用してはならないので、切り替えを行わない方がよいとなる。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「トロッコ問題」を要約

上記によれば、功利主義と義務論の対立に関する問題であるとのこと。この問題の起源についてはよく知らないので断言できないが、要するに次のような話なのであろう。
すなわち人の命を数量的に見積り、より大きい結果が得られる行動を取るべきという功利主義の主張と、ある道徳的命題が妥当すると考えられるのであれば、その命題に従って行動するべきという義務論の主張についての倫理学的対立というわけである。
前者については、分かりやすく1より5が数的に大きいから5人が助かる方が望ましいという理屈である。
後者が少しわかりにくいので解説すると、ある道徳的命題、つまりこのトロッコ問題においては「誰かの目的のために誰かを利用してはならない」という命題が正しいと考えるのであれば、目の前の5人を助ける目的のために1人の命を利用することはこの命題に従うと許されないので進路を切り替えてはならないという結論になる。

この功利主義と義務論の考え方に共通していることがある。それは倫理的に肯定または否定される行為に関するある種の一般化である。功利主義は数量化による一般化であり、義務論は道徳的命題による一般化である。
これはどういうことを指しているかというと、このトロッコ問題に限らず、功利主義においては数量的により多くの幸福や快が得られるのであれば常にそちらを選択すべしとなるし、義務論においては「誰かの目的のために誰かを利用する」という一般命題が妥当であるとみなされる以上、どのような状況においてもそれに該当する行為は行ってはならないということになる。
つまり具体的な行為を直接的に許可・禁止をするわけでなく、言わば数学の方程式のように定式化された倫理法則があり、ある行為が倫理的に望ましいかどうか判断する際は、その方程式にあてはめてその是非が判定できるわけである。

「トロッコ問題」の意図とは何か?

素朴に考えると「トロッコ問題」のようなシチュエーションが現実にあった場合、5人の作業員に向かって「危ないぞー!」と退避を呼び掛けたり、(トロッコが無人なら)トロッコの進行を食い止めようと脱線させるための細工を試みたりなど、進路の切り替えというより、まずはトロッコと作業員の衝突を避けるための行動を思案するだろう。それがうまくいけば作業員6人全員を助けることができる。
しかしそのように主張すると、設問者は「5人まで距離があるので声は届かない」とか「トロッコは猛スピードで走っているので進行を食い止めるのは不可能だと」制約を課してくるだろう。
つまりこれは最初から5人の命を助けて1人の命を奪うか、それをせず5人の命を見殺しにするかの二者択一の問題であり、それ以外の選択を許さないものなのである。
というのもこれは本来トロッコ云々の話ではなく、功利主義と義務論どちらが倫理法則として優れているかを検討するための問題なのである。

誤解を恐れず例えるなら、これはある場所へ到達するための移動手段として電車と飛行機どちらが優れているのかを検討するようなものである。到着する場所は初めから固定されており、5人を見殺しにするか、1人の命を自らの手で奪うか、いずれかのバッドエンドに終着することが確定事項となっている。移動手段として功利主義を使えば前者にたどり着き、義務論を使えば後者にたどり着く。そして、どちらのエンディングがマシに感じるか?ということを問うているのである。つまり、よりマシに感じる結論を導く倫理法則が、この場面においてはより優れているという話なのである。このことを理解せずに「トロッコ問題」を考えるとスッキリとした答えの出ない意地の悪い問題に取り組まされているだけの状態になる。
この「トロッコ問題」は、おそらくいろいろな意見があるだろうが、直感的には功利主義の方が優勢と感じやすい思考実験だろう。これを一種の事故と考えたとき5人の命が失われるより、1人の命が失われる方が被害としては少ないからである。
しかし、このような事例ではどうだろうか?
5人の重篤患者がいる。ある者は心臓が悪く、ある者は肝臓が悪いといったように、患っている臓器が各々異なっている。この5人を病魔から救うためには健康な臓器を移植するしか術はない。そうしたとき、1人の健康な身体の持ち主の臓器をこの5人に分けて移植し、5人の命を救うことは許されるであろうか?(この場合健康な1人は当然命を失う。)
この事例において、功利主義であればより多数の人間を助けることができるから移植すべきという結論となり、義務論であれば、誰かの目的のために誰かを利用すべきでないとするから移植はすべきでないということになる。倫理的直感に照らせば、この事例では移植すべきでないと感じる人が多数であろう。
このように想定される内容に応じて、功利主義の方がうまく結論を導くと思われる場合もあれば、義務論の方がうまく結論を導くと感じる場合もある。それはさながら近距離移動は自動車が適し、遠距離移動は飛行機が適しているといったような話で、どちらの倫理法則にも一長一短がある。
そして、このことを踏まえて考えると設問者の本来の意図は現実問題としての「トロッコ問題」を解決させようというものではないことが分かる。解決しようとしているのは、2つの倫理法則のうちどちらが優れているかという問いであり、そのため現実に想定しうる様々な選択肢を捨象し、分岐器を切り替えるか、切り替えないかの選択のみに都合よく限定しているのである。
そもそも現実に「トロッコ問題」のような状況に遭遇した場合、考えうる最善の結果は6人全員が助かることだ。だからまずは全員助かる方法を考えるはずであり、成功の可能性の度合いは別にして、そのために取りうる手段はいくつか考えられる。それに対し設問者は「6人全員が助かる道はない」とこの問題に制約を掛けてくるわけだが、現実には本当にその道がないかどうかは試みて初めて分かることなので、この制約は現実には課すことのできない制約である。

「トロッコ問題」に潜むもの

では現実にはありえない状況設定がされている「トロッコ問題」はただの机上の空論なのだろうか?
しかしこの問題の中には非常に興味深い倫理的なある事柄が潜んでいる。

まず、あなたがA氏の立場だったら分岐器のレバーを引いて進路を切り替えるという決断を行うだろうか?(進路を切り替えなければ5人が命を落とす、進路を切り替えれば1人が命を落とすという結果が確定的なものと仮定した場合の話である。)
これはあくまで私の主観ではあるが、もしA氏の立場に置かれた場合、現実にはレバーを引くのはかなり躊躇を感じるだろう。私の行為によって本来死ぬことはなかったはずの人命が失われるのだから、これは当然の感覚だと思う。その命を奪うことによって罪悪感に苛まれることは容易に想像がつく。私だったら踏ん切りがつかずに、何もせずに5人が死ぬ結末を迎えてしまうかもしれない。
では、あなたがこの状況を遠く離れた場所にいてカメラ映像で見ていたらどうだろうか?そしてA氏がレバーを引くか迷っているのを見たとき「レバーを引くべきではない」「それは倫理的に適切な行為ではない」と考えるだろうか?おそらく「絶対にレバーをひくべきではない」とまでは思わないだろう。レバーを引くことによって被害が5人から1人に減少するわけだし「レバーを引くべきだ」とすら考えるかもしれない。
ここで興味深いのはレバーを引く当事者の立場にあるときとそれを客観的に考えるときでは「レバーを引く」という行為に対する倫理的な感覚がまるで違うということである。
なぜこうも感覚が異なるのだろうか?

もう一つの事例で考えてみよう。
これは一般的に「カルネアデスの板」と呼ばれる問題と同類の事例である。

A氏が乗船している旅客船が転覆した。
A氏は運よく旅客船に備え付けられていた救命ボートの一つに乗り込むことが出来た。このボートにはA氏を含め5人が乗っている。
そのボートにもう一人、他の遭難者が乗り込もうとしてきた。
しかしこのボートは小型で、もう一人乗船すると確実に転覆し全員が再び海へ投げ出されることとなる。
A氏はこの遭難者を突き落とし、乗船させないようしてもよいだろうか?

この問題も「トロッコ問題」に似ている。
要するに5人全員が助かるために、1人を犠牲にしてもよいか?という問題である。
この事例においても、もし自分がA氏の立場であれば、実際に海に突き落とすとなると強い躊躇を感じるだろう。しかしこれを客観的な立場で考えたとき、1人が乗ることによってボートが転覆し、結果この1人を含めた6人全員が溺れる可能性が高いので「突き落としても仕方ない」もっと言えば「突き落とすべきだ」と思うだろう。
つまりこの事例においても当事者と客観的に考える立場とでは倫理感覚が異なる。

もし当事者の立場と客観的に考える立場とで受ける倫理感覚に違いがあるのであれば、そこには立場によって異なる倫理的要素が存在しているはずである。
それは上記でも述べた「レバーを引く」「突き落とす」という行為を「自らの手で行った」という事実により生じる罪悪感である。これこそが当事者の立場と客観的な立場の決定的な違いである。
しかし罪悪感が実行を躊躇させていると考えると理屈に合わないことがあるのに気づく。
もし罪悪感を抱きたくないという個人的な損得を理由として「レバーを引かない」という選択をした場合、それによってより多くの人の命が失われるのであるから、むしろより大きい罪悪感に苛まれることになるのではないだろうか?「"私"が罪悪感を抱きたくない」という言わば身勝手な理由のために、より大きな犠牲が生じるわけであるから「レバーを引かない」ということの方が、よっぽど罪が重いという理屈もありうる。
では次のように考えればこの矛盾は解消されるのではないだろうか?自らの手で誰かの命を奪う、その罪悪感は個人的な損得の問題ではなく、もっと普遍的な人間の倫理感覚に基づいたものではないだろうかと。

これまでの歴史で起きてきた人が人の命を奪う行為、それは手を下した者の倫理観が失われてしまっていない限り、少なからずその行為に対する正当化が行われているはずである。つまり人の命を奪うことが、もっとより良いことを実現するために仕方のない行為なのだ、という正当化である。そしてこの正当化のものとに、後から振り返って評価すると悲惨としか思えない殺人が行われてきた。
このことを鑑みると、確かにこの「トロッコ問題」は1人の命より5人の命が数量的に大きいという、ごくシンプルな算数的正当化が容易にできるわけであるが、そういった正当化を前にしても自らの手で人の命を奪う行為に躊躇を覚えることは、悲惨な過ちを犯さないための人間にとって偉大なる倫理的ストッパーなのではないだろうか。
これがもし500万円の物品と100万円の物品という「物」に対する選択であれば、私は躊躇なくレバーを引けるだろう。この問題がどうしてここまで迷いを生じさせるかと言えば、それは他でもない人命のかかった問題だからである。
ここで「トロッコ問題」に潜む倫理的に重要な事柄が浮かび上がってきた。それは、こと人命に対して、われわれは単純な数量的比較やその他論理的正当化の前であっても、それを奪う事に対する躊躇が生じるような重大で深刻な倫理感覚を持っているということである。

人命に関するもう一つの倫理的考察

もう少し考察を深めてみよう。
「トロッコ問題」に関しては、当事者の立場であればレバーを引くことに倫理的葛藤が伴い、客観的な立場では当事者の立場ほどレバーを引くべきではないという感覚は覚えない。
では上記で例示した5人の重篤患者への臓器移植はどうだろうか?
あらためてこの事例を考えてみよう。

5人の重篤患者がいる。ある者は心臓が悪く、ある者は肝臓が悪いといったように、疾患のある箇所が各々異なっている。この5人を病魔から救うためには、健康な臓器を移植するしか術はない。そうしたときに、1人の健康な身体の持ち主の臓器をこの5人に分けて移植し、5人の命を救うことは許されるであろうか?(この場合健康な1人は当然命を失う。)

このケースの場合、直感的には「許されない」と感じる人が多いのではないだろうか?しかも臓器移植を実行する当事者の立場にある場合だけでなく、客観的にこれを考える状況であっても「臓器移植はすべきでない」と考える人が多いのではないだろうか?
つまりこのケースにおいては、当事者と客観的に考える者の間で「トロッコ問題」ほどの倫理感覚の揺れが無いのである。もっと言えば、自分が手を下さない立場にあっても「これは倫理的に許されない」と感じるわけだから、われわれにとってこのケースは「分岐器のレバーを引く」行為よりずっと倫理的に禁じられるべき行為だと感じられるということである。
しかしこのケースも一見すると、形式上は「トロッコ問題」とほとんど同じで5人を助けるためには1人を犠牲にする道しかないという状況である。なぜ「トロッコ問題」に比べ「臓器移植問題」の方がより倫理的に禁忌だと感じやすいのだろうか?

この2つの事例における違いは、犠牲になる人間が特定の人間に限定されているか否かである。「トロッコ問題」の場合、犠牲になる人物は進路が変わった先にいる作業員と特定されている。一方「臓器移植問題」は(型が適合しないと臓器移植できないなどの現実的な医学的問題を捨象すれば)健康であれば誰の臓器を移植しても構わないわけである。すなわち犠牲になる人物はほとんど無差別に選択しうる。

「トロッコ問題」において義務論の立場であれば「レバーを引かない」という結論を導くと上述したが、この義務論の難点は「誰かの目的のために誰かを利用するべきではない」という道徳的命題をすべての状況に対し当てはめようとすることである。
例えば上記のカルネアデスの板がいい事例だが、その1人の犠牲を払わなければ、その1人も含めた大勢が命を落とす可能性が高いといった最悪の結果を導く選択であっても、あくまで「誰かの目的のために誰かを利用するべきではない」という命令に従わせようとする。(したがってボートに乗ろうとする者を突き落としてはいけない、となる。)
この頑固で融通が利かないところが義務論の難点である。
しかしわれわれは、1人の犠牲によって本当に最悪の結末が回避されるのであれば、それを選択するべきであると、真に深刻な状況のときには決断しなければならない場合もあるかもしれない。つまり現実のわれわれは起こりうる結果に全く目を向けずにあくまで正しい道徳的命題に従うという盲目的倫理観までは持ち合わせていないのである。
われわれは、人の命を奪うということに対しどのような正当化を前にしても躊躇はするが、ただ一つの例外なく人の命を奪うことは許されないとまでは考えていない。しかしそれが許されるのは、あくまでも限定された特殊な事情において、それを行わなければ最悪の結末が待っているというようなシチュエーションにおいてのみである。これもまた人間の持つ倫理観の絶妙なバランスである。
「臓器移植問題」では、犠牲になる人間は健康であるという条件を除けば無特定であり、それゆえ無差別に選ばれうるし、助けようとする重篤患者にあっても重い病気を患う人は世界中に多くいるわけだから無特定であり無差別に選ばれうる。
したがって「臓器移植問題」が「トロッコ問題」以上に否と感じるのは、誰でもいいから少数の者が犠牲になり、誰でもいいから多数の者が助かるという無差別的な命の選別をよしとしない、というこれもまた人間の持つ特徴的な倫理感覚のためなのである。

倫理感覚から倫理理論に昇華しうるか?

ここまでの考察に対し、以下のような反論がありうるだろう。
ここまで語られたのはあくまで「当事者の立場では躊躇を覚える」という倫理「感覚」の話で、これは主観的な事柄である。すると結局「トロッコ問題」などの倫理的ジレンマに関する問題は各々の主観的感覚で解決すべきだということになるのか?しかしそれでは「私はこう感じるから、これが正しい」という個々人の感想になり、結局何の正解も得られていないことになるのではないか?

「感覚」は個々人によって異なる。そのため感覚だけを基準にすると人によって正しさが変わり、大勢の人間で倫理的な問題に関する決定・合意をしなければならない場合、結論にたどり着かないこともある。だからこそ感覚という主観的なものに左右されない功利主義や義務論といった、客観的な判断基準を授ける倫理法則が考案されたわけである。

ここまでの「トロッコ問題」に対する考察も、私の倫理感覚に基づいている部分がある。そのためこれは誰にも彼にも当てはまるという話にはならない。例えば「トロッコ問題」において、当事者の立場にあっても自分は躊躇なくレバーを引けるという人もいるかもしれない。だが世の中の人全員ではないが、多くの共感は得られる話をしているだろうという思いもある。ここまで繰り広げた考察で、私が自分の感覚に基づいて主張したことは以下の3つである。

  • 「トロッコ問題」において、当事者の立場にあるときと客観的立場にあるときを比較すると「レバーを引く」という行為に対する倫理的躊躇は前者の方が強く感じる。

  • 「トロッコ問題」における1人の犠牲で5人を救う選択と「臓器移植問題」における1人の犠牲で5人を救う選択を比較したとき、後者の方がより倫理的に許されないという感覚を持つ。

  • 「トロッコ問題」において犠牲となるのが人ではなく物品であれば、当事者の立場であっても「レバーを引く」という行為に対しそれほど躊躇を感じない。

この3つに共感をする人が明確に多いのであれば、やはりそこには人が持つ倫理的な何かが存しているはずで、私が考える限り、それは人命に対する特別の価値観である。
しかし仮にそうだとしても、これはあくまでも多くの人が持っている「個人的な感覚」でしかないのであろうか?
恐らくそれだけではないと考える。
私はレバーを引くことの躊躇には罪悪感が関係していると述べたが、その際、その罪悪感は個人的なものでなくもっと普遍的な何かであると主張した。なぜそう言えるのか考えてみよう。そのためには「レバーを引くこと」に対する次の反論に答えなければならない。

反論
「レバーを引く」ということは普遍的な倫理感覚ではなく、あくまで個人的な感覚である。というのもレバーを引かずに作業員5人が死んでしまっても、それに私は何の関与もしていないわけだから、それに対し責任を問われるいわれはない。逆にレバーを引いてしまうと、それによって生じる結果に対し、私もその一端を担うことになるから責任を問われる可能性がある。
つまりレバーを引くことを躊躇するのは、何もしなければ無関係の立場のままでいられるが、レバーを引くことによって関係者の1人となり何らかの責任を負わされる可能性があるからである。つまるところ人命を奪うことに対する躊躇というより、責任を負いたくないための個人的な損得にその動機は求められるのである。

この反論に対しては以下のように考えられる。
まず上述したようにこのケースを500万円と100万円の物品に置き換えて考えてみよう。人命の場合と比べて、レバーを引くことの躊躇はかなり軽減されるはずである。それどころか、レバーを引くことによって明らかに被害額は減少されるのだから、それを分岐器の前にいる人(A氏)が理解しているのにそうしなかったとなると、責任を問われるとまではいかないだろうが「機転が利かない奴だ」といった風に揶揄されるくらいはあるかもしれない。いずれにしても物品を想定した場合、被害を減少できる機会を逸していることから、レバーを引く場合と引かない場合とで問われそうな責任はほとんどイーブンくらいに感じられる。
それなのになぜ人命がかかる状況においては、レバーを引かないことによって受ける責任に比べ、レバーを引くことによって受ける責任が重いはずだと感じてしまうのだろうか?
申し訳ない。また結局個人的な感覚を基に話をしてしまった。

では個人的な感覚を抜きに改めて考えてみよう。
人命の場合で考えても、レバーを引ける立場にあったにもかかわらず、レバーを引かないことによって1人の犠牲で済むところが5人の犠牲になるわけだから、先入観なしにこの事実だけを見ると、レバーを引くよりレバーを引かないでいる方が責任追及を受けないと明確には言い切れないように思われる。
もしこれが仮に「責任を問われたくない」という個人的な損得による判断であったとして、なぜそのときレバーを引かない方が責任を問われないだろう、と考えるのだろうか?
それは自分が実行した結果として生じる「1人の人間の命が奪われる」という事実が、社会や他者にとって圧倒的に深刻で重大な結果だからである。
すなわち、責任を負いたくないという個人的な損得を動機としてレバーを引かない判断をした場合であっても、それは社会にとって人間の命が数量的比較という合理性だけでは納得いく説明が難しいほど非常に重大な問題である、という価値観を前提として考えているからである。
したがって、個人的な責任逃れのためにレバーを引かなかい人がいたとして、その人もまた人命が非常に重要であるという価値観を内在しているはずなのである。もっと言えば、人の命の重みを十分に感じているからこそ、大きな責任を問われる可能性があると考えレバーを引かないのである。もし人の命の重みを感じていなければ、それこそ単純に5人助かる方がいいだろうとためらいなくレバーを引くはずである。

ここまでの考察によって明らかになったことをまとめてみよう。
次の前提が置かれた。
「トロッコ問題」において、当事者の立場にあるときと客観的立場にあるときを比較すると「レバーを引く」という行為に対する倫理的躊躇は前者の方が強く感じる。
これが第一の前提である。
そして次のことが述べられた。
その躊躇の根拠が個人的な損得ではなく、人命に対する倫理観感覚に基づいているものだとすれば、それは個人的な感覚だけではなく、もっと広く社会一般に通底している倫理観である。
そしてさらにこのことも述べられた。
その躊躇の根拠が個人的な損得であっても、それは社会一般に人命に関する特別の倫理観があることを前提としている。
したがって、いずれにしても第一の前提が正しいとすれば、「社会一般に広く通底する人命に関する特別の価値観が存在する」という結論を得ることができる。このように人命に対する特別な倫理観は、単なる個人的感覚に解消されるようなものではないという結論が浮かび上がってきた。

しかし、これは第一の前提が正しいと仮定した場合である。おそらく多くの人が当事者の立場にあるときの方がより躊躇を感じるだろうと予想するが、もちろん当事者の立場でも客観的立場でも何ら躊躇は変わらない、という者もいるだろう。
よって、ここでの結論(社会一般に広く通底する人命に関する特別の価値観が存在する)は、功利主義や義務論のようにどんな状況もそれに当てはめて解釈できる倫理理論のようなものでなく、単なる倫理に関する一つの説ということになり、さらにはすべての人に当てはまる絶対的なものにまでは昇華できない、ということになる。

おわりに~「トロッコ問題」に潜む「人命に対する特別の価値観」~

人命は特別な価値のあるものとして社会一般に見なされているということは、「トロッコ問題」についてごちゃごちゃ語るまでもなく当たり前のことではないか?という意見がありうるだろう。
確かにここまでの考察で結論付けられたことは、「人の命は特別に大切である」というごく当然のことを言っているだけのようにも思われる。

ではここでの考察にはどういう意味があったのか?
まずこれはただ「人の命は特別に大切である」と述べているだけではない。
重要なのは「いかなる合理的説明を前にしても、人の命を奪う行為は容易に正当化しえない」という倫理における原理原則の一端がこの「トロッコ問題」の中に見出されるという点にある。もちろん人命の大切さは大多数の人が倫理的意識として感じていることかもしれない。しかし、この意識は何となく感じるというだけでなく、合理的な説明によって「人の命を奪うべきである」と命令されてもなお、その合理性を打ち破る強固な意識になりえるのではないか、ということがここまでの考察の結論である。このことから、もしわれわれの持つ倫理感覚と矛盾しない合理的な倫理理論・倫理法則を打ち立てるのであれば、まずもってこの人命に対する最大限の尊重をその理論・法則の中の基本事項として組み込まなくてはならないということが言えるだろう。
当然ここでの短い論述において、そのような壮大な理論までを語ることはできないし、また倫理に関する様々な学説を遥か昔から多くの哲学者・倫理学者・科学者たちが提唱してきているわけだから、今さら私がここで新たに打ち立てられるわけもない。
今回のテーマは「トロッコ問題」についてであり、この問題の単なる成り立ちだけ考えれば、それは「功利主義」と「義務論」倫理学における二つの代表的主張の対立に関する問題かもしれないが、ここまで見てきたように、この問題が多くの人に倫理的ジレンマを感じさせるとすれば、その根源はわれわれが持つ「人命に対する特別の価値観」こそがその正体であり、それはあらゆる倫理理論、倫理法則にとって看過すべきでない事項である、これがここでのひとまずの結論ということになる。

附言~倫理学上の「功利主義」と「義務論」の対立について~

一番初めの話に戻ろう。
「トロッコ問題」はもともと功利主義と義務論の2つの倫理的主張の対立に関する問題である。この問題は古今東西、喧々諤々議論されてきたことなので、今さら素人の私が語る意味もないかもしれないが「トロッコ問題」に即した上で、私の意見を述べておこう。
私はここで「トロッコ問題」に潜む重要な倫理的事柄として「人命に関する特別の価値観」を挙げたわけだが、それは「人命に関する倫理的な判断基準は単に数量的な比較のみによってなすことはできない」ということを示唆する。
よって数量的比較に基づく功利主義的判断は、少なくとも人命に関して言えば、倫理的主張として大きな問題を抱えているということが言える。
また数量的比較に基づかない選好功利主義(どちらが好ましいか、どちらが質的に優れているかによって比較する功利主義)であっても、それはあくまで判断する個人または集団の選好に基づいているため、結局は個人の価値観に解消されるので、これもまだ問題があるように思われる。(この人命に対する特別の価値観はもっと一般的なものであるため。)
そのため「功利主義」か「義務論」かという二つの立場の対立問題として考えるのであれば、私は「トロッコ問題」など人命の存続に関する倫理的問題を解決する倫理法則として私は義務論の肩を持つということである。
功利主義のように、数量的評価が最も高くなる行為を常に最善の選択と評価することは人命に関してはなじまない。

では義務論に従い「トロッコ問題」では進路を切り替えず、5人が命を落とす結末を選ぶべきということになるのであろうか?

この「トロッコ問題」の状況設定の特筆すべきことは、「レバーを引く」ということは作為で「レバーを引かない」ということは無作為であるという点にある。
義務論において、妥当な道徳的命題は行動規範の役割を果たす。すなわち行動に関する一種の制約なのだが、「レバーを引かない」ということは何もしないことなので、そもそも行動ではないから義務論が制約する行為の範疇の外にあるように感じられる。
このことを鑑みると、なぜ当事者の立場の方が「レバーを引く」ということに対し躊躇を感じるのかについて義務論の立場であれば説明がつく。われわれはある倫理的選択を迫れた際に、その行為が引き起こす結果の良し悪しだけでなく、その行為それ自体の是非を考える。つまり結果だけでなく行為そのものの正しさに焦点が当てられているのである。これは結果に対し倫理的に良いか悪いかを判断する功利主義では説明ができない。だから少なくとも「「トロッコ問題」において、当事者の立場にあるときと客観的立場にあるときを比較すると「レバーを引く」という行為に対する倫理的躊躇は前者の方が強く感じる」ということを認めるのであれば、義務論の方に準拠して説明されなければならない。

義務論は常に正しい道徳的命題に従って行為すべきとされるが、そのときその正しい道徳的行為によって生じる結果に関しては言及しないというのが、この倫理法則の特徴である。したがって義務論を「トロッコ問題」に当てはめる際に次のような解釈がなされる。
今回考察した最もオーソドックスな状況設定での「トロッコ問題」においては「レバーを引かない→5人が確実に死ぬ」「レバーを引く→1人が確実に死ぬ」というように、行為とその結果が確定的なものとして結びついている。しかし義務論は「レバーを引く」という行為が道徳的でない行為であればそうすべきでなく、その選択の結果については言及しない、すなわち、どちらの結果になるかは問題ではない。では何を問題とするかと言えば、その行為を選択した動機である。だから設問者が、レバーを引かなければ5人が命を落とし、引けば1人が命を落とす結果に確実になると制約をかけてきたところで「そんなの知ったこっちゃない。道徳的に正しい動機で行動したのであれば、結果的に5人死のうが、1人死のうが倫理的に問題ない」と主張するだろう。
ここまでの話に従えば、「5人が命を落とす結末を選ぶべき」ということになる。

しかし次のような解釈もできるように思われる。
「トロッコ問題」では、われわれの取りうる選択肢とその結果は「レバーを引かない→5人が確実に死ぬ」「レバーを引く→1人が確実に死ぬ」という二択に限定されている。しかし序盤に述べたように本来はもっと色々な可能性や選択肢があり得る。少なくともトロッコが近づいてくるのを察知した時点では成功の可能性の度合いはさておき、6人全員が助かる手段だって思案して実行することもできる。
それを鑑みると、この「トロッコ問題」がかけている「レバーを引かない→5人が確実に死ぬ」「レバーを引く→1人が確実に死ぬ」という二択しかありえないという制約は、かなり特殊な状況であるということが言える。だから義務論からすれば、そういう制約がなければ、こうも言えるのである。「レバーを引かないという行為が道徳的に正しくないのであればそうしない。そもそもレバーを引かなかったからと言って5人が死ぬとは限らない。5人がトロッコに気が付き自ら線路から退避して助かることも想定できるのだから」と。ところである、この制約がかかることによって、その可能性は全く排除されてしまうから、レバーを引かないという選択は5人を見殺しにする、という行為にほとんど等しいものなっている。だからこの状況設定下においては「レバーを引かない」という行為もまた、無作為の作為として道徳的行動規範に適合するかどうかの検討対象になる、という解釈が可能になる。
そうすると事実上「1人を犠牲にして5人を助けるか」「5人を犠牲にして1人を助けるか」という問題にかなり接近してくる。こうなると義務論上はどちらをとっても「誰かの目的のために誰かを利用する」、すなわち道徳的に正しくない行為となる。つまり義務論上はどうあがいても悪い方にしか転がることができず、そのためもはやどちらが正しい行為なのか判定は不可能である。このことによって導き出される義務論上の結論は「レバーを引いてもいいし、引かなくてもいい」となる。それは見方によっては義務論の限界にも見えるが、そうではなくて一つの妥当な結論として、このような状況下においてはレバーを引いたとしても、引かなかったとしても倫理的にはどちらも正解であり、不正解であるとするべき、という主張もあり得る。

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