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自信と客観

こんにちは。 コです。

前々回の自己紹介、たくさんのスキをいただき、嬉しく思います。noteの影響力にただただ驚くばかり。そして100フォロワー超!ありがとうございます!
そしてお待たせしていまい申し訳ございません。

本日は、「自分」と「他人」の感覚の違いについて。

大学に入学して3年、人と関わる中で自分のあれこれをさらけ出そうとやってみたが、よく思われないことの方が多い。最近も、なんとなく避けられてる気がして、嫌われてしまったという孤独感や寂しさが大きい。
自分が自分のことを一番わかってるし、いろんなことに自信を持ってやってきたつもりだったが、客観的にみると良くない姿だったということがわかって。毎日反省を繰り返してる。

自分の思いを誰かに共有すること。
こんなことがしたいという野望。
膨大な課題の波を一つ越えられた些細な嬉しさ。
なんでも言葉にしてしまうが故に、自分がいう分にはなんともないものの、他人から見ると
自慢ぽいし、自己満で話してるように見えて、
面倒くさい。
そのような「評価」を人伝に聞くことが増えた。その評価たちは、関わった人だけではなく、その人々が愚痴などの形で伝えられた人からの評価も入っている。俺が関わったことのある人もそうでない人も。1人の評価がみんなの評価になる。関わったことがなくても、一つマイナスな面を知ればそれが評価の全てとなり、関わり方や関わるか否かの判断に繋がる。それに今まで気づけなかった。それが人生一の後悔である。
でも私は、この評価を聞けて助かった。もちろんいい気持ちはしないけど、聞かなかったら人として変わらなかったから。今も変わるために言葉を選んで過ごしているつもりである。
大学内での自分の信頼は、もうない。無いならないなりに、自分の自信のあるところを必要な場面で出せるような力が必要。自分の出来ないことを誰かに言われるのは完全に自分が悪い。不意に出た言葉が自信をアピールしていると受け取られて何か言われることも、自分が悪い。受けとられ方によって他人の自分に対する価値が変わる。それをよーく自覚しなければならない。
ここまでだいぶネガティブに見えるかもしれないが、全部ほんとのこと。もう少し人間社会で生きるべきヒトとしての姿になるためにどうするか考えなければいけない。
このnoteは、そんな溜まった思いを吐く場所でもある。この場における「コ」という人ならば臆せず言える。本当の自分を偽っていい場だと思ってるからこれからも言いたいことを言う。だからこそ名前に「ヒトリゴト」とつけているし、さまざまな形で自分と他人の感覚を共有できると思っているので、どうか聞いてほしいのです。

大学というのは、いい意味でも悪い意味でも評価がハッキリつく。某哲学者の言葉を借りるなら、「有用的な徳」を基準に人付き合いが構築されている。だからこそ、周りを見ながら生きて、その中の参画できる場面で自分を出すことを大切にしていく。
人に合わせろということではない。自分の自信がある部分をわかっているのなら、発揮する場所もわかっている必要がある。
認められなくてもいいが、どっかの部分が誰かに届けばイイなというのが本音。ただ有用だからという付き合いから脱するため、自分を捨てず自己を貫けるように必要なことを確実にモノにしていこう。

今日のまとめ
・周りが自分のことを簡単にわかってくれると思うな。
・疑うのは他人ではなく、自身の自信の根拠。
・わかってもらえないことを他人のせいにするな。軽率な自意識が、評価の全てをつくる。そう、自分のせい。


今回はここまでです。また、私のヒトリゴト聞きに来てください。