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正しく行うことと生きること

正しく行うことについては、一定の答えがあると思っていまして、仕事でも社会通念に適う商品を生産する、サービスを提供することが正しく行うことです。

ところが、「生きること」については、このような意味での正しさはありません。

というのも、正しく行うことは何らかの特定の行為や作業というフィールドの中の問題であるのに、生きることはこうしたフィールドを超えている、ということです。

しかも、生きることにおいては、人それぞれ異なることが了解されていて、しかも個人が生き方を選択する、というポイントが焦点化されるのです。

ただ単に個性の違いがあるだけでなく、選択という行動にポイントがあるため、その人が成長し、生きてきた時代や環境の影響も受けるということです。

こうした問題をごっちゃにして物事を考えると、正しい生き方みたいなよく分からない考え方につながり、そうした固定観念に縛られることになります。

時代によっては、上記のような一般的に生きるとはどういうことか、という通念が支配する時期もあります。

社会が経済的に成長しつつある、それゆえに大規模な労働力を生産過程に投下しなければならない時期です。

社会が経済的に成熟して、かつてのように生産過程に労働力を投下する必要が少なくなってくると、当然そのような典型的な生活観を人々に押し付ける必要がなくなるため、人それぞれ、という考え方になってくるのではないかと思います。

上記は経済の成長段階からの説明ですが、それだけでなく、生産能力の発展もありますね。

同じ量の商品を生産するのに、昔は100人の労働が必要だったのが、今や10人の労働で十分だ、ということもあります。

さらには、これが決定的だと思うのですが、情報の自由化があると思います。

情報発信がマスメディアに握られていた時代は、典型的なライフスタイルというものを発信しやすいですが、個人が発信する時代になりましたので、人それぞれ好きなライフスタイルを選択する、という流れになってきたのではないかと思います。

このような時代の変化に即して言うと、現代はやはり自分に合った生き方を送るのが幸福度がより高く、なるべく情報を集めて自分に合った生き方を選択できるようになれば、と思います。

そうすると、やはり情報を集めることが大事であり、noteのようないろいろな方々の情報発信の場が大事、ということですね。

以上、生きることにおいて正しいかどうかを考えることの違和感について書きました。

この問題について関係する本として、下記の二冊があります。


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