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“正義”との付き合い方

正義は常に危険と隣り合わせだ。

世の中には正義のヒーロー、正義の味方、、、”正義=良いもの“という漠然としたイメージがあちらこちらに散らばっている。

だが一方で、これまでの歴史を振り返ると正義と正義がぶつかり合うことで何度も戦争が起きてきたという事実もよく知られるところである。

一体正義とは何か。

辞書的に説明すれば倫理、道徳的な正しさといった具合だろうか。

だが何を以て正しさを定義するのかについては哲学的な問題であり、明確な答えは存在しない。

「正義の教室 善く生きるための哲学入門」飲茶 著によれば、正義の判断基準は、自由、平等、宗教の3つに分類されるそうだが、これらの判断基準を比較して分かる様に、どのイデオロギーに立って正義を唱えるかという話でしかなく、そこに絶対的な正しさなど存在しないことは明白であり、道徳的な正しさの答えが存在しないこともまた当然である。

少なくとも正義について分かることは、正義とは常にある一方の視点から語られるということだ。

ありがちな例えだが、アンパンマンと鬼滅の刃における正義の観念を引き合いに出してみる。

アンパンマンという作品は、毎話アンパンマンが正義の味方として悪さをするバイキンマンを懲らしめるという構成になっている。

バイキンマンがどういう意図をもってイタズラをしたのか、その背景を視聴者は知らないが、とにかく起きた”事実“に対して制裁を加える。そして毎回バイキンマンを空の彼方まで突き飛ばす。

果たしてバイキンマンにはそこまでされる道理があったのだろうか。

幼い私たちはアンパンマンが市民を守るためにバイキンマンを懲らしめるシーンにカタルシスを刺激され、熱狂する。もはやそこにバイキンマンへの配慮は無い。

ドキンちゃんらから見ればアンパンマンこそ悪者であろうが、私たちはアンパンマンの正義を信じて疑わない。

勧善懲悪を盾に私たちの正義は過熱化し、バイキンマンを不当に傷付けてしまっている可能性を見えなくさせている。

一方鬼滅の刃という作品は、鬼によって妹を鬼にされた竈門炭治郎が、仇打ちのために鬼狩りとなり、鬼を退治しながら妹を人間に戻すために奔走する物語だ。

家族を鬼に惨殺されたという強烈な悪事に対して、圧倒的な正義の元鬼を懲らしめるのかと思いきや、炭治郎はそれぞれの鬼の悪事の“背景”に寄り添う姿勢を見せる。

本作品では両者にとっての正義にスポットライトを当てたことで炭治郎側(=私たち)の正義の暴走を防ぎ、鬼が成敗される場面においても公正な懲悪が行われているという納得感を感じさせる。

もちろんアンパンマンを貶す意図は無く、あくまで善悪二元論的時代から多様性を求める社会へと変化したまでの話であるが、アニメから学ぶこともある。

正義は誰かを守ることも出来るが、誰かを容易に傷付けることも出来る。故にその取り扱いには十分注意しなければならない。

至極真っ当なことを今更声高に叫ぶのは、情報に溢れ、SNSの普及により多種多様な正義が交錯する現代社会において、正義の争いが近年過激になってきている現状を憂慮しているからである。

正義は社会秩序を保つために一定の重要な役割を担っているが、この世界に絶対的な正しさが無い以上、過熱化し暴走した正義は時に誰かの正義を侵害する恐れがあることを改めて肝に銘じたいと思う。

以上、語り尽くされたテーマで語り尽くされた結論に帰着した社会人2年目の気付き。


〜気になる本〜
「正義の教室 善く生きるための哲学入門」飲茶著
https://www.amazon.co.jp/正義の教室-善く生きるための哲学入門-飲茶/dp/4478102570

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