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旅のはじまりと、インターネットカフェ

小学校の同級生たちとの旅行を終え、福岡のネカフェに泊まることにした。私だって、ネカフェのような閉塞された空間に宿泊したくなんかない。ありとあらゆる人間たちが、この狭い空間でし得るすべてのことをしてきた歴史のある部屋に、果たして安らぎなどあるのだろうか。怨念やら、執念やらは漂ってそうだけれども。

祭りが終わった翌々日は(翌日は片付けがある)、大きな虚無感と寂しさに悩まされるように、旅行の終わりもまた、寂しいものだ。特に大人数で3軒の屋台をハシゴした後に、居酒屋でおでんを食べ、もつ鍋屋でもつ鍋を食べ、カラオケに行った次の日だと、抜け殻になったような気持ちになる。

そんな時は、さっさと家に帰って日常を取り戻すのが得策だが、生憎そうもいかない。明後日の早朝には福岡空港から別の友人と卒業旅行に行くことになっているからだ。一旦帰るような体力はないが、かといって信じられないほど高い物価のこの辺で、普通のホテルに宿泊するような余裕もない。だからこんな穴倉に閉じこもって、こうしてパソコンをぽちぽちしているわけだ。

とはいうものの、私はこの状況を楽しんでもいる。大量の漫画を読むことができるのは理想的ですらある。でもなぜか、家から持ってきた本を読みたい気分になった。『ブラックスワン』と題名のついたその本の表紙には、黒い白鳥の絵が書いてある。極めて理系的な題材を扱ったこの本だが、掛け算もできないような文系人間の私でも、すらすら読めるのが魅力である。

この本を初めて読んだのは大学二年生の頃だった。「不確実性科学」という変わった分野の研究者でありトレーダーであるこの男の本はそれはそれは衝撃的だった。当時の衝撃を思い出しながら、ページをめくっていた。私が文化人類学を学ぶようになったのは、いささか逆説的ではあるが、この本が要因のうちの一つである。

時間が少しづつ経っていく。ネカフェの中は外界とは時間の流れ方すら異なっているように思える。すっかり夜になり、外の空気を浴びようか、はたまたそのまま寝てしまおうかなんて考える。



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