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【歴史その4】「記録を残さなかった男」にも歴史がある

歴史に名を残すには

 アメリカ合衆国の100ドル紙幣に肖像画が描かれているベンジャミン・フランクリンには、次のような名言があります。「亡くなり朽ちてすぐに忘れられないようするには、読むに値するものを書くか、書くに値することを行いなさい(If you would not be forgotten as soon as you are dead and rotten, either write things worth reading, or do things worth the writing)。」私たちにとって、歴史に名を残すのは、まさにフランクリンの名言を実現した人々のことだと思います。
 しかし、忘れられる定めにある、その他大勢の普通の人々に歴史はないのでしょうか?彼らは、彼らなりにかけがえのない一生を送ったはずです。ただ、歴史学をかじったことがある人ならば、こう反論するかもしれません。「確かに無名の人々も大切だが、史料がなければ、歴史学の対象にはならないのではないか。」
 確かに、19世紀に学問として成立した歴史学は、厳密な史料批判に基づいています。歴史学者は、研究の対象とするテーマに関する文献や史料を収集し、吟味します。そのうえで、論文や研究書にまとめる際には、記述している内容の根拠となる資料を注で明記します。そして、史料が明らかにしていないことについては、ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』ではないですが、沈黙しなければなりません。
 このことによって、歴史学は、学術的な厳密性を得ることができました。しかし、それと引き換えに、その条件を満たせないような過去の人々や事象は、歴史学が扱う対象から漏れてしまうことになりました。実在していたのに、歴史上は存在しえない人々。彼らを歴史学の対象にできないかと果敢に挑戦した歴史学者がいます。
 そう、「記録を残さなかった男」には、歴史があるのです。

アラン・コルバンの実験

 フランスの歴史学者であるアラン・コルバンは、1998年(原著)に『記録を残さなかった男の歴史』(邦題)という本を出版しました。
 この本でコルバンは、1798年から1876年まで、フランスのオルヌ県のオリニ=ル=ビュタンという所で一生を送ったルイ=フランソワ・ピナゴという木靴職人の世界を描いています。ピナゴは文盲で、一切の史料を残していません(正確には、嘆願書に書かれた十字が唯一の痕跡です)。
 そもそもコルバンがピナゴを研究対象とした理由も風変りです。通常、歴史学者は、自身の研究テーマを、なにかしらの問題意識をもって、ある程度先行研究を踏まえ、史料がどのくらい存在しそうかなどを加味して、決めます。
 しかし、コルバンの場合、まず、自身の故郷であるオルヌ県の市町村ごとの古文書の目録をランダムに開きました。そして、開いたページにあったオリニ=ル=ビュタンという自治体を研究対象にしました。さらに、その土地の戸籍台帳から2人の名前をピックアップし、そのうちより長生きだったという理由だけで、ピナゴを選んだのでした。
 まるで、テレビ番組『笑ってコラえて!』のダーツの旅のようです。
 コルバンがこの本で試みているのは、史料を残していないピナゴ自身を描くというよりは、ピナゴが生きたであろう世界を再構築することです。彼が過ごした地域の歴史や家族との関係が、様々な史料から明らかになります。また、フランス革命、ナポレオン戦争や普仏戦争が、ピナゴの人生に、どのような影響を及ぼしていた可能性があるかなどが検討されています。
 確かに、史料を残していないピナゴ自身について不明な点が多いことで、もどかしい感じも受けます。しかし、「読むに値するものも書かず、書くに値することも行っていない」普通の人を歴史学の対象にするとは、まさにこのようなことなのかもしれません。

記録が残っていることの権力性

 何も記録を残さなかったピナゴが実在したことを証明するものは、自治体の戸籍でした。特に近代以降において、このような公文書が歴史を語るうえで重要になってきます。
 しかし、国家が個人の記録を残すことには、当然ですが、理由があります。そして、それらにアクセスできるか否かは、とても政治性を帯びています。
 記録、権力と歴史の関係について、中米にあるグアテマラの例を見てみましょう。
 2005年7月、グアテマラの人権オンブズマン事務所の職員が、とある倉庫に残されていた大量の書類を見つけました。それは、かつての国家警察が残した資料でした。
 グアテマラは、1960年から1996年まで、長きに渡り、内戦状態でした。その間、親米派の軍事独裁政権と左派的な活動家たちが争っていました。その争いの中、左派的とされた市民が国家警察によって誘拐され、拷問のうえ、殺害されていました。
 倉庫に山のように放置されていた何万もの書類は、まさにそのような国家警察の行動を裏付けるものでした。グアテマラの人権オンブズマン事務所は、国外からの支援なども受け、半ば朽ちていた書類一つ一つを整理し、スキャンして保存するプロジェクトを立ち上げました。
 2005年の文書の発見から2009年に公文書館への移管まで、何百人ものスタッフによって史料が整理されました。スタッフの中には、親族が国家警察によって殺害された人もいました。彼らにとって、記録を整理することは、非業の死を遂げた人々を救い出す作業でした。
 このように、歴史の土台となる記録自体(アーカイヴ)も歴史的な経緯を経て、存在しています。

私の思いを記した文書だとしても

 公文書が保存されていることの権力性について見てきましたが、そういった公的機関以外の私的な文書であれば、権力性がなく、個人の思いをよりはっきりと感じることができるのでしょうか?
 近年では、日記や手紙など一人称で綴られた文書に対する関心が高まっています。それらは、エゴ・ドキュメントと呼ばれます。
 一見すると、プライベートな記録である日記や手紙は、書き手の心を映す史料のように思えます。しかし、それらが存在することにも意味があります。
 例えば、後期ソ連における「個人由来の文書」の保存活動について見てみましょう。
 1970年代以降のソ連では、自分自身の歴史を振り返る「自分史」が人々の間に広まっていきました。
 なぜだったのでしょうか?
 そこには、共産党国家からの働きかけがありました。
 まず、1977年に制定された「史跡・文化遺産の保護と利用について」というソヴィエト連邦法には、いわゆる史跡などに加えて「市民個人が所有する歴史的・学術的・芸術的その他の文化的に意義ある価値を示す文書」も保護の対象になるとされました。
 ちょうどこの法律が発効される前後に、ソ連作家同盟機関紙の『文学新聞』において、普通の人々の個人的な文書を国家的に収集・保管することの是非について、10回に渡って議論されました。普通の人々の文書をただやみくもに集めるのではなくきちんと選抜するべきだとする反対意見もありましたが、おおむね、普通の人々の書き残した文書も歴史的な価値において偉人が書き残したものと同等だとして、保存の意義が強調されました。
 そのような歴史的な背景の中、ウラジミール州では、1980年から第二次世界大戦(ロシアでは「大祖国戦争」と呼ばれている)に兵士たちが送った手紙等を収集・保管する「前線の手紙」作戦という運動が行われました。これは、州の国立文書館(アーカイヴ)と学生が協働して、戦争期のエゴ・ドキュメントを集める活動です。この活動を通じて、3000通以上の手紙、日記、回想録、写真など約5000件の文書が収集されました。
 このように、個人の記録だとしても、そこには国家的な思惑が見え隠れします。もちろん、そのような国家的な要請に関わりなく、人々は文書を書き残しています。とはいえ、その場合であっても、特にそれらが保管されている場合、そこには何かしらの理由があります。

歴史に名が残っているということは

 歴史学者でなければ、私たちは、ほとんどの場合、完成形の歴史としか接しません。歴史は、過去に起こったことで、あるのが当たり前のもののように感じています。
 しかし、歴史があるためには、多くの労力を必要としています。まず、過去の出来事についての記録や記憶がなければいけません。また、それらは何らかの形で保存される必要があります。
 そして、歴史学者たちが、長年のトレーニングの末に、それら史料(時には判読するのが難しい手稿など)を読み解いていきます。ただ、史料がひとりでに語りだすことはありません。歴史学者たちは、それらの背景を調べ、問いを投げかけることで、少しずつ史料を書き残した死者たちに再び命を吹き込みます。
 その結果、完全に歴史を復元できるとは、歴史学者であれば思わないでしょう(多くを知れば知るほど、知りえないことも意識せざるを得ないからです)。それでも、そのような努力の積み重ねを経て、私たちは、歴史を知ることになるのです。

<参考文献>

アラン・コルバン(1999)『記録を残さなかった男の歴史:ある木靴職人の世界…1798-1876』渡辺響子訳、藤原書店

長谷川貴彦編(2020)『エゴ・ドキュメントの歴史学』岩波書店

Steedman, Carolyn (2001) “Something She Called a Fever: Michelet, Derrida, and Dust.” American Historical Review, Vol. 106, No. 4, pp. 1159-1180.

Weld, Kirsten (2014) Paper Cadavers: The Archives of Dictatorship in Guatemala. Duke University Press.

<次回予告(12月7日公開):「境界を生きた女たち」にも歴史がある>

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