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【note7月公開!】俳句で伝えられないこと【月刊 俳句ゑひ 卯月(4月)号 『無題1』を読む〈中編〉】

 こちらの記事は、月刊 俳句ゑひ 卯月(4月)号の『無題1』(作:若洲至)を、上原温泉が鑑賞したものの中編です。まずは作品の掲載されている本編、及び〈前編〉をご覧ください!


俳句で伝えられないこと

隣家にムスカリのある寒さかな

 鑑賞の〈前編〉にて、若洲至はゑひにおける俳句の「良心」だと書いた途端になるが、今回は、あれちょっと違うかも? な句を取り上げる。違うかもの理由は「ムスカリ」が春の季語で、「寒さ」が冬の季語だからである。俳句には、当季であること、つまり今の季節を詠むこと、それから季語は一句の中にひとつだけ入れること、という原則があり「季重なり(季語が一句の中に二つ以上あること)は駄目」と固く禁じる俳人もいらっしゃる。むろん作者はそれを百も承知で作っている。
 ムスカリの花期は三月から五月。耐寒性が強く耐暑性の弱い春の球根植物だ。今春の東京は例年以上に気候が安定せず、日によってはふつうに寒かった。作者はわざわざ季重なりを冒してまで、そんな春の寒さを詠みたかったのか? まずは「隣家」(「となりや」と読む)という言葉を手がかりに句の世界へ入っていきたい。

 句中には作中主体がいるが、もうひとりまたはもうひと組の人間を、見えずとも背後に意識することができるだろう。隣家の住人だ。玄関の前にはムスカリが群れている。ムスカリが作中主体から見える位置にあることや、そんな小さな植物の咲く空間から、豪邸というより、日本によくある中堅的な住宅地の一軒家みたいな、こじんまりとした家の佇まいを思い浮かべた。家の印象は建築当初、敷地のサイズや建物のデザインによって定まるが、年月を経るうち、各戸ごとの特有な雰囲気を漂わせるようになるもので、住まいする隣人の有り様の違いがその雰囲気の違いとなって現れてくる。そして作者は、そんな隣家の雰囲気を「寒さ」として感じ取っているのである。つまりこの句においての寒さは「季語」ではなく作者の心象を象徴する「言葉」であり、季重なりは起きていない。

 さて、となれば「隣の家を寒いと感じた」のは作者の主観に過ぎない。俳句は思いを述べるためには不向きな詩形で、それは十七音しか使えない短さによる。自分の抱いた感慨を読者に伝えようとしても、そんなふうに感じる理由の説明や言い訳をするためには、字数が少なすぎるのだ。「となりのいえがさむい」で十文字。あと七文字でその根拠に説得力を持たせるのはなかなか難しい。そこで「ムスカリ」について再考してみよう。サイズ感から家の規模を想像することはできた。筆者なら次はムスカリをズームアップして観察したい。

 存外に濃い色からは、毒々しさを感じた。こちらがむず痒くなるような異物感を、集合体の形から見て取るのもいいかもしれない。よく見ると可憐というほどでもない。春に咲く小さくて可愛いイメージとは違う側面をムスカリという花は持っている。これが俳句の目になって見直した結果の、作者の発見である。

 句から得た情報は以上だが、この僅かな情報をつなぎ合わせたり膨らませたりしているうち、隣家の気配が何だか妖しくなってきはしまいか。隣人の得体の知れない事情を深読みしたくなってさえこないか。しかし俳句にできるのはここまで。私の読みも個人的な想像に過ぎず、そのような事実が仮にあったとしても、それを明確に伝えることはできない。なぜかって……

  だから、字数が少なすぎるからです。

 毒々しさ、異物感、妖しさ、得体の知れなさ……作者が感じ取った(と筆者が思っている)すべては、言えないまま「寒さ」という言葉に集約される。そしてムスカリにも似た作者の濃厚な思い。その行き場は無いとわかっているのにそれでも、自身の発見をあと一歩強く、誰かに言いたい。伝えたい。代弁するのは、詠嘆の助動詞「かな」であり、感情を吐露するために許された字数は、たったの二文字である。

 筆者は初学の頃より、このように的確な省略や事象の切り抜きができなかった。理由は、たった二文字の詠嘆が担う感情や、十七文字に収まらない心象にばかり関心が向いて、たとえば笠やムスカリのような実景に興味、というより、それらを写生するための表現欲が湧かなかったからなのだが、それでは俳句は駄目なのである。「月刊俳句ゑひ」では、特に俳句を始めたばかりの方々のため、「うえはら、おまえがいうな」的正当な読みを若洲の句に対して行っていきたいと思う。「良心」はなくても、良心をもって。

月刊 俳句ゑひ 卯月(4月)号 『無題1』を読む〈後編〉に続く

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