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〈氷菓〉ってどんな季語?【ゑひの歳時記 文月】

 1つの季語を巡って、上原・若洲がそれぞれ考えていることをざっくばらんに書いていく「ゑひの歳時記」。普通の歳時記には書かれていない季節感や季語の持つ魅力、難しさなどをお伝えしていくコーナーです。7月ふたつめのお題は「氷菓」。若洲が出したテーマに対して、上原も考えます。


上原の場合(回答者)――理知を越えていけ――

体に定着しない言葉

 感覚の問題として、あまり好きではない季語がいくつかある。体験の不足が原因で苦手になってしまった季語とは少し意味合いが違う。前回取り上げた「天使魚」に続き「氷菓」も、その独断的なカテゴリー内に位置する。俳句表現において言葉の堅さはあまり良しとされないのだが、じゃあ氷菓って言い方は堅くないんですか? と、内心訝しんでいるところがある。「氷菓」は氷菓子類の総称だ。総称ねぇ……立派で、堅くて、カジュアルな実物との乖離がちょっと、みたいな抵抗感がどうしても残る。

 『ゑひの歳時記』はメンバー2人の合作形式だが、筆者は遅筆のため先に書き上げるのはいつも若洲だ。それで文中、熱帯魚も氷菓も、そのジャンルの具体の総称であるところは同じ、との指摘を読むことになり、筆者の不平に矛盾が生じてしまった。

 「熱帯魚」の子季語である「天使魚」を個人的に好まないのは、恣意性を感じているからという別の問題なので、今回は述べない。「熱帯魚」が総称であっても、氷菓のような抵抗は特にない。この不公平な感じ方の違いについては、若洲が論を立てて解き明かしているので詳細はそちらに頼り、筆者はゆるく進めたい。

 熱帯魚の具体的な名前に詳しくない人はいるかもしれないが、ソフトクリーム、アイスクリーム、シャーベット、かき氷など、氷菓の具体名を知らない人はほとんどいないだろう。しかし「氷菓」だけは、日常、口から発する機会が筆者にはないし、だから言葉が身体に定着していない。子どもの頃からソフトクリームはソフトクリームだし、かき氷はかき氷だ。それで長らく氷菓の句を作るときは、氷菓以外の子季語を使うことにこだわってきた。

百姓の手に手に氷菓滴れり   右城暮石
氷菓売る老婆に海は無き如し  右城暮石

 言葉はいきものであるから、氷菓という言葉にも旬の時期があったはずと思い調べてみた。右城暮石は1899年から1995年までを生きた俳人なので、時代が味方した良き氷菓の句を見出すことができる。

古き良き氷菓

父母の氷菓の棒が子にのこる  飯島晴子

 飯島晴子ファンとしての贔屓目を差し引いても胸に響いてしまった句。あれ?「氷菓」は好きじゃなかったのではなかったか自分?

 さらに遡る余裕がなくて限定的になってしまい恐縮だが、少なくとも昭和の湿度に氷菓という季語は良く似合う。子季語には「氷菓子」という言葉もあり、それらは往時の人々の日常に、無理なく存在する言葉であったろう。また掲げた句がいずれも人事句であるのは、若洲の言う「一方向性」を普遍的に内包する季語であることの証左といえよう。

 そして今回、ゑひの俳句発表のお題として出されたことで、とうとう氷菓の句を作らなくてはならなくなった。筆者の思い出の中には存在しない言葉を使って、情感と実感に満ちた句に仕立てるのは無理過ぎる。

透きとほる氷菓透き通らるるからだ  上原温泉

 というわけで、苦肉の策によりこんな句に。毎回反省ばかりしていても芸が無いので、たまには自己弁護を試みたい。若洲が指摘するように、理知とレトリックにより成り立っている句であり、それは言葉遊びに過ぎない……と、必ず誰かに否定される自信ならある。

 さて理知に陥ってしまったその駄目さを示したいなら、こんな句と比較してみるとよい(言われる前に自分でやります)。

ひた嘗めに氷菓ほそらせほそらする  阿波野青畝

理知で結構

 正面から対象に迫ろうとする実直さが実景と直結している。だから句に力がある。筆者もこんな句がとても好きで、その流れを追いかけたい気持ちも十分に持っているつもりなのだが、今回そんなふうにならなかった理由はふたつあった。

 ひとつめに、やはり若洲の論考するように、氷菓とそれに準ずる呼称の、季語としての幅の狭さがある。氷菓が俳句に詠まれるようになってからの十分に長い歳月の中で、すでに名句は詠まれ尽くしている。阿波野青畝の一句を取り上げただけでもこんなに良いのだ。自分が超えて行ける気がしないのは、氷菓に限らず他の季語の先行句にも言えることだが、氷菓のあまりの余地の狭さには、頑張ろうとする意欲すら萎える。もう私なんぞが作らなくてもよろしゅうござんしょ? という気分だ。

 ふたつめは、話戻って、氷菓が “総称” であったから。

 たとえば「ブランコ」は春の季語として、総称の「遊具」からは独立している。ただブランコは、中国の寒食節の慣習に由来する季語であり、別の意味を持つから、本来なら同列に語ることはできない。今だけ、論点はそこではないのでスルーします。俳句が実景を大切にするというなら、遊具の句を作ろうとするときは「遊具」よりも「ブランコ」、ブランコが紛らわしいなら「すべり台」または「ジャングルジム」と表現するほうが、より正確に実体へ迫ることができるではないか。それでも遊具という言葉を選ぶ場合があるのは、言葉の間接性や抽象性を使ってこその詩を掌中にするためではないのか。

 だから繰り返す。総称は間接的であり、時には抽象的ですらある。実体との間に生まれる薄紙一枚ほどの隙間に、すかさず人の操作は入り込むし、逆に操作なくしては、俳句としての焦点の絞り込みが甘くなるだろう。

 そんな「氷菓」、自分なりに刷新しようと踏ん張ったら、いわゆる理知俳句に至った。しかし今回は理知を肯定したくもあるのだ。なぜなら総称とは、具体をまとめるための呼び名であって、具体そのものではない。しかし具体を纏ってはいるので、たとえば「秋思」のような抽象季語とも違っていて、最終、紛らわしい。そのどっちつかずな概念を、的確に捉え鋭く表現しなおかつ理には陥るなって? それ、フェアじゃないと思ってしまう。

 今回初めて「氷菓」で検索をかけてみたのだが、今は季語としてよりも、米澤穂信の推理小説『氷菓』(2001年)のほうが認知されているようで、京都アニメーションによるアニメ化(2012年)効果もあり、新世代には改めて浸透している言葉かもしれない。物語『氷菓』の名にまつわるオチは、これから読む方に申し訳ないので明示はしないが、紛れも無き理知に富む言葉遊びだ。

 小説と俳句が違うのは承知しているし、違っていなくては面白くないわけだが、季語を含む句作にあたっての概念を時代に合わせて更新することは、俳句にとって悪いばかりでもないだろう。筆者としては、今後の氷菓の句を、理知を駆使しながら理知とは呼ばせないぐらいのレベルで成し得たいと、目標設定できたのは収穫だった。

若洲の場合(出題者)――一方向性をかいくぐる――

 先週公開のゑひの歳時記〈熱帯魚〉は、ご覧いただけましたか? 若洲としては「大まか上等」というタイトルで書いておりまして、書きにくかったと冒頭で主張する割には息巻いたテンションという、なんか不安定な感じの文章なんですが、そちらを読んでいただくと、今回の「氷菓」に対する理解にも役立つと思います。

 図らずもなんですが、2つの季語には共通するところがあるんです。それは同じ特徴を持つものの総称であること。「氷菓」には具体的なもの――ソフトクリーム、シャーベット、かき氷など――が含まれていて、季語として使った場合は基本的にそれらの中のどれかを指します。グッピー・チョウチョウウオなどの総称として熱帯魚という語があるのと、構造としては同じです。

 逆に大きく違うのは、手触り感です。熱帯魚に(そして熱帯に)触れたことはない人はいるでしょうが、氷菓(あるいは氷に)触れたことのない人は非常に少ないでしょうから。俳人が「氷菓」を季語として使うとき、多くの場合はシンプルにシンプルにかき氷か、あるいは棒アイスみたいなものを指す気がしますが、みなさんが「氷菓」と言われて想像するものも、だいたいこの辺だと思います。

 ですから、熱帯魚のときに問題になった、(その季語を使って俳句を作る場合に、その俳句が)俳句の外の世界で共通理解を生むことができないという問題を、氷菓はクリアすることができています。

 では、この季語を使うときの難しさはどこにあるか。7月発表の作品を眺めながら考えたときに思い浮かんだのは、一方向性でした。

一方向性とは

 一方向性とは、その季語を使うとき、その使い方が極端に固まってしまうような性質を指す、筆者独自の用語です。例えば「花火」という季語は一方向性の強い季語かもしれません。賞に応募された作品に関してよく聞く話だと、若い世代から「花火」の句を募ると、だいたい恋愛に関係する内容の句になってしまうらしい。こうした季語は、類想るいそうを招きやすい、発想が固まりやすい、などと表現することもできます。

 氷菓もその類だと思うのには、いくつか理由があります。一つは経験則。もう一つは俳句における慣例です。

歳時記で見る氷菓(経験則)

 俳句をつくるときによく参照するのが歳時記という種類の本で、そこには簡単な季語の説明と、今までにその季語で作られた俳句の例、物によっては季語の成立背景などが書かれています。

 そこで氷菓を見ると、場面別に次のような分布になっています。

  • 氷菓を食べている場面や人……5句

  • 氷菓を売っている場面や人……2句

俳句歳時記 第五版 夏 (2018) 角川書店編により筆者分類

 食べている場面に句の偏りがかなり強くあることがわかります。そうか、売っている場面もあるか、と思ったかもしれませんが、個人的にはもうちょっとバリエーションがあるんじゃないかと思っていました。俳句を作るときに、そのものを観察したり経験したりするのは常套手段ですから、例えば注文して待っている場面や、氷が削られていく場面、それが運ばれている場面、などがあってもいいのではないかと思うんですね。

 念のため手元にあったもう一つの歳時記(こちらの方が多くの句を収録している)を見てみたのですが、こちらはこんな感じ。

  • 氷菓を食べている場面や人……7句

  • 氷菓を売っている場面や人……4句

  • 氷菓を買っている場面や人……1句

  • 氷菓を手に持った場面や人……1句

  • 場面不明……2句

角川俳句大歳時記 第五版 夏 (2013) 角川学芸出版により筆者分類

 ちょっと増えましたが、圧倒的に食べている場面が多いですね。これらの句を見ながら俳句を作るとなると、やっぱり食べる場面を中心に思い浮かべることになるでしょう。筆者もその一人でした。

氷菓食ふ間に準急が通過せり  若洲至

食べ物を詠むときは(慣例)

 もう一つの一方向性を支える要因は、俳句における慣例です。簡単に言いますと、特に食べ物を詠むときにはそれを美味しそうに詠むべきであるというもの。一見当然のことのように思えるかもしれませんが、個人的には食べ物に限った特異なことだと思います。

美しき緑走れり夏料理       星野立子
みつ豆はジャズのごとくに美しき  国弘賢治
さじなめてわらべたのしも夏氷      山口誓子
枝豆のさやをとび出す喜色きしょくかな    落合水尾

注:ふりがなは筆者

 夏から秋にかけての食べ物の句を集めてみました。どれも美味しそうですし、食べている人の嬉しそうな顔が目に浮かぶようです。

 特徴的なのは、各句の中にある感情を表す語、つまり「美しき」「たのしも」「喜色」です。いずれの言葉も、俳句の中でたくさん出てくる単語ではありません。なぜなら、子規や虚子の主張に沿って考えた時、俳句で重んじる客観性からかけ離れてしまうからです。

 客観は主観の逆。これを定義するにはこのコーナーは短すぎるので割愛しますが、とりあえず感情を詠み込んだ時点で客観性は失われると単純に捉えておくことにしましょう。

 しかし上に挙げた通り、食べ物の句においては、感情を含めて詠んだ句が多く名句として認識されています。それもそのはず。「美味しそうに詠む」という原則そのものが主観を含めることを要請しているからです。

 今回は、この慣例の善し悪しについて議論しませんが、食べ物の句に例外的にかかっている美味しそうに詠むという縛りが、出力する句の幅を狭めている可能性があるということは、言っても差し支えないと思います(だからといって美味しくなさそうに詠むのも考えものではありますが)。

一方向性をかいくぐるにはどうすればいいのか

 しかしながら俳句の世界は、新規性が評価される世界でもあります。上に挙げた難しさを抱える氷菓という季語を、どのようにして作品に仕上げていくことができるでしょうか。

透きとほる氷菓透き通らるるからだ  上原温泉

 上原が詠んだ上の句は氷菓は1つの解を提示していると感じました。この句では、対句法を用いて情景を描写し、美味しそうかそうでないかの論点を句の中に発生させていません。言うなれば、レトリックを活かすことで氷菓を客観の世界にとどめることに成功しています。

 情景は至ってシンプル。作者が氷菓(かき氷のように筆者には思えます)を目の前にし、少しずつ食べ進めている様子を思い浮かべることができます。透きとおっている氷菓を口に運んでいくとき、自分のからだは氷菓にとって動作の対象になり、「透き通られている」状態が成立します。理知的ではありますが、理知を通して主観からうまく逃れ、氷菓が透きとおっているという事実と、からだが透き通られている・・・・・・・・という独自の表現を手にしたのです。

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