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より広義の文脈へ【月刊 俳句ゑひ 文月(7月)号 『いいね』を読む〈中編〉】

 こちらの記事は、月刊 俳句ゑひ 文月(7月)号の『いいね』(作:上原温泉)を、若洲至が鑑賞したものです。まずは下の本編、及び〈前編〉をご覧ください!


他の作品の文脈を踏まえる

 今月は過去作品と上原温泉の作品の関連を検討しています。前回に引き続き、今回は他の文芸作品との関連性を筆者が感じたものを挙げて説明していこうと思います。

ゑひ[酔]にとっての埼玉

埼玉の先を見つめるバルコニー

 まずはこちら。季語は? と思われるかもしれませんが、ここでの季語は「バルコニー」です。別荘地や夕方の風景を思い浮かべて夏の間でも涼を取ることができる空間であることから、季語として認知されています。

 この詠みぶりからは、埼玉(県)の平野をはるかに見渡す、標高の高いところにある涼しいバルコニーの姿が浮かび上がります。この夏も酷暑と言うにふさわしい気候ですが、内陸にある埼玉の、特に平野の夏は特に厳しいことで知られます。熊谷市や鳩山はとやま町などでは、その日の全国最高気温を観測することもしばしばです。

 そんな灼熱の平野を見下ろすバルコニーは、あたかも天空の城のように感じられます。実在するのかしないのか、謎に包まれたバルコニーです。

 さて、この俳句のキーワードである「埼玉」は、月刊 俳句ゑひ 皐月(5月)号でも若洲の作品の中に出てきました。

埼玉に日陰少なき鳳蝶  若洲至

月刊 俳句ゑひ 皐月(5月)号より

 この句の鑑賞文の中で、上原は埼玉をこう表現しています。

(前略)
埼玉の一側面として、広がる平野、幹線道路を飛ばす大型車や乗用車、巻き上がる砂埃がある。
(中略)
構造物が少ないか、あっても低層で、周囲に原っぱが広がる
(後略)

埼玉~群馬【月刊 俳句ゑひ 皐月(5月)号 『無題2』を読む〈前編〉】より

 埼玉という場所には、他にも多くのイメージがあるはずです。しかし夏に埼玉を詠む場合は、このようなイメージが共有されるだろう。その前提を皐月号の若洲の俳句から引き継ぎ、自らの作品に活かしていると言えます。筆者個人的には、そのつながりには非常に納得感がありますが、読者の皆さんはいかがでしょうか?

 俳句に出てくる地名は、往々にしてさまざまなイメージをその中に内包しています。場所のイメージは、そこの持つ特徴・歴史はもちろん、過去に詠まれた俳句や他の文学作品によっても形作られていきます

暗黒や関東平野に火事一つ  金子兜太

 金子兜太かねことうたが関東平野を詠んだ有名句です。ひときわ明るく燃える遠くの火事を視界の中央に据えさせ、視界全体にある関東平野を暗黒として捉えることで、明暗のコントラストが際立つ句になっています。

 兜太の句と上原の句には、見渡す視点が共通しています。関東平野・埼玉という粒度で情報が提示されると、場所そのものの具体的な個性は失われ、明暗・乾湿・寒暖などの体感が、読者に迫ってくるようになります。

 上原の句は若洲の埼玉を受けています。しかしそれを広い視野で捉えれば、それらも過去の多くの俳句によって作られてきたイメージを生かさないことには成り立たないものです。

 これを逆手に取って考えれば、過去の作品の作り上げたイメージを十分に踏まえることが、良い作品には欠かせないと言えるのです。

「いいね」と言えば……

 今回のタイトル『いいね』の由来となった句(すなわち表題句ひょうだいく)はこちらです。表題句は、いわばその連作のテーマとして作者が捉えている句だと考えるのが自然です。

横顔がいいね熱帯魚も君も

 横顔を褒められたことありますか。意外とないようであるんじゃないかと思います。それでもって魚を見るときってだいたい「横顔」を見ますよね。熱帯魚と人の横顔を並列したところに作者の独自性がありますが、理解不能でないのは、得も言われぬ実感があるからだと思います。生き物に対する視点の新しさ、恋愛の句が読めなくなったと言いつつ(2023年4月~7月の記録【ゼロから始める短歌記録〈Vol.3 〉】参照)、その雰囲気を醸し出す詠みぶりからは、表題句に据えるに足る上原らしさを感じられます。

 ところで、「いいね」「君」という並びを見て、なにか別のものが思い浮かぶ方はいませんか? 一世を風靡したあれです。

この味がいいねと君が言ったから七月六日はサラダ記念日  俵万智

 『サラダ記念日』は1987年、歌集として例外的な売上を記録しました。その年の年末に「サラダ記念日」は新語・流行語大賞にも選定されています。「いいね」のような口語を用い初々しい恋の姿を描き出した点が評価されたとともに、多くの人にとっての短歌のイメージを塗り替えた和歌であると言えるでしょう。

 翻って上原の句を見ますと、「いいね」だけならばまだしも、「君」というワードまで重なっています。ここまで言葉の選択が同じだと、イメージを重ねて詠むべしというシグナルのように、筆者には感じられます。ということで、同じような世界観を想定しながら鑑賞してみます。

 上原の句でも、やはり登場人物は若い二人でしょうか。隣にいる恋人の顔を眺める、その行動に意味はありません。そして思わず横顔が、やっぱりいいなと感じるのです。横顔を見ている相手の目は、水槽の中の熱帯魚に注がれていて、こちらを見てはいないけれども、鮮やかで美しい熱帯魚を見つめる様子も魅力的に映っている。相手の一挙手一投足が愛おしく見えるような時期を、熱帯魚の華麗な姿をレンズとして描き出しています。

 有名なものとの関連性を作品の中に感じるとき、有名作品と比べることは必ずしも必要ありません。むしろ元の世界を活かして広がるイメージをどれだけ具体的に鮮明に広げることができるか、いわば素材の持ち腐れ感がないかが問われます。個人的には、上原の作品において「サラダ記念日」は、よく活かされていると感じています。

先行作品を活かして

 俳句の世界では、俳人としての人格という意味で、「俳人格はいじんかく」という言葉が使われます。上原温泉の発表開始は3月ですから、まもなく俳人格の生後半年といったところです。しかし当然のことながら、俳人の作る俳句は、俳人格の形成以前に、一人の人間として経験してきたことの影響を非常に色濃く受けていますし、むしろそれがあぶり出されていくような感覚があります。

 それらを消化しさらに昇華していくことで、作者の生み出す作品はさらに深みを持っていくことになります。今回の文章に挙げたように、元からある世界をうまく自分の中に取り込んでいく姿は、上原の一つの強みと言って良いでしょう。

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