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夜空を見あげるたびに、ヤツのことを思い出せ! メル・ギブソン3部作『マッドマックス』英雄伝説 全世界を戦慄させたバイオレンス特急! それは路上の『スター・ウォーズ』だった! 町山智浩単行本未収録傑作選30

文:町山智浩
初出:『映画秘宝』1999年12月号

 A Few Years from Now……
「今から数年後……」の字幕、ドクロのマーク、地平線の彼方まで広がる荒野に伸びるハイウェイ、「アナーキー・ロード」と書かれた錆びついた道路標識……。オープニングの数秒だけで、観客は殺伐とした『マッドマックス』の世界に引きずり込まれた。それは、ほとんどの観客にとって、生まれて初めてのオーストラリア映画、そして初めての「近未来SFアクション」だった。
 警官を殺してパトカーを奪い、クスリでラリったまま暴走するギャング「ナイトライダー」を追う特殊警察MFP。しかし、青姦するアベックを狙撃用ライフルでのぞき見するループ、メシ食いながら嬉しそうに交通事故の死体の話をするグース、と、警官のほうもどこか狂っている。そして甲冑のような革スーツに身を固めて登場する主人公マックスも、逃走車を止めるのではなく、なんと後ろから押してクラッシュさせる凶暴さ。
 この冒頭のカーチェイスは、ハリウッド製アクション映画とはまるで違っていた。それは劇映画というより、交通違反者が見せられる記録フィルムのような映像だったのだ!

● 映画の暴力パート1

「僕は医者として悲惨な交通事故の被害者を山ほど見てきた。『マッドマックス』はそこから生まれたんだ」と、監督のジョージ・ミラーは語る。
 1945年生まれの彼は医大卒なので、オーストラリア出身の同姓同名の監督と区別するため、Dr.ジョージ・ミラーと呼ばれている。シドニーの病院で実習生として働いていたミラーは映画監督になる夢を捨て切れず、1971年、映画学校の夏季講座に参加する。そこで出会ったのが、『マッドマックス』のプロデューサーになるバイロン・ケネディである。
 2人はサム・ペキンパーのバイオレンス西部劇が大好きということで意気投合し、短編映画『映画の暴力パート1 Violence in the Cinema Part1』を作り上げた。
 脚本・演出はミラー、製作、撮影、編集をケネディが担当した。内容はいわば「ニセ教育映画」で、1人の評論家がサム・ペキンパーなどの映画で描かれる暴力の影響について論じていると、いきなり銃弾が彼の目玉を撃ち抜く。それでも表情を変えずに論じ続ける彼を、ありとあらゆるバイオレンスが襲うが、最後まで彼は淡々と論じ続ける。

『映画の暴力パート1』の一部

『映画の暴力パート1』は、そのブラック・ユーモアが評価され、数々の映画賞を受賞した。しかし『パート2』はなかった。ミラーとケネディは最初の劇場用長編映画『マッドマックス』の企画に入ったからである。

●近未来交通事故ホラー

 1974年、オーストラリアで2本の暴走族映画が公開された。1本はピーター・ウィアーの監督デビュー作『キラー・カーズ/パリを食った車』、もう1本は本物の暴走族を出演させた『マッド・ストーン』だ。ミラーは言う。
「広いオーストラリアにとって自動車とは、西部劇における馬、サムライにとっての刀と同じなんだ。問題は、広すぎるから、誰も交通法規なんか守らないってことだ」
『映画の暴力パート1』の結末も、突っ込んできた自動車が評論家を轢き殺すというものだった。「交通事故のホラー映画を作ろう」。ミラーのアイデアにスピード狂のケネディは賛同した。ミラーはキューブリックの『時計じかけのオレンジ』(1971年)と、ロジャー・コーマンの『デス・レース2000年』(75年)にヒントを得て、荒廃した近未来で暴走族に妻子を殺された警察官マックスの復讐物語を書き上げた。
 当時、オーストラリア政府は、自国の映画文化を育てるために資金援助を行っていた。しかし、こんな暴力映画に政府が金を出すわけがない。ケネディとミラーは自分たちで製作資金を調達しなければならなかった。そこで開業したのはフリーの救急車サービスだ。無線で通報を受けて、ケネディの運転で現場に急行し、ミラーが応急処置をする。交通事故の現場も体験できるので、一石二鳥の仕事だった。

●常識知らずのシロウト集団

 なんとか出資者を見つけ、メルボルン郊外で撮影が始まったのは1977年11月。ところが、撮影開始4日後にマックスの妻ジェシーを演じるはずの女優が交通事故で重傷を負い、急遽代役を立てたというから、つくづく交通事故と縁のある映画だ。
 集まった製作費は35万豪ドル。超低予算なので、マックス役は演劇学校の学生メル・ギブソン。ほかのキャストも新人と素人ばかり。敵となる暴走族役には、『マッド・ストーン』に出演した本物の暴走族「ヴィジランティス」を安く雇った。
 スタッフの6割は、ミラーとケネディをはじめ、誰も劇場用映画の経験がなく、そのうち2割は映画そのものの知識も経験もなかった。カメラマンのデヴィッド・エグビーなどは、35mmカメラに触るのも初めてで、マニュアルを読みながら撮影を行った。
 映画の定型も常識も何も知らないアマチュア集団が失敗と発見と試行錯誤を繰り返しながら撮った『マッドマックス』でも、そのザラついた映像には、今までの商業映画にはない、まるでスナッフ・フィルムのような殺気がある。車の改造を担当したジョー・ダウニングの証言によれば、キャストやスタッフは常にシャブやコカインでラリった状態だったという。『マッドマックス』の画面に漂う狂気はそこから生まれたのかもしれない。

●誰も俺のことをとめることはできねえ!

 アクションには、ケネディの全精力が投入された。彼はときには自分でカメラを回し、ときには自らハンドルを握ってスタントを演じた。
 ケネディはリアルさを重視し、車を実際に150キロ以上のスピードで走らせて撮影した。特に、マックスのV8迎撃車に押されたナイトライダーの車がドラム缶に激突する場面では、実際に時速300キロ以上で暴走させるため、車からエンジンを取り外し、代わりに固体燃料ロケットを搭載して文字どおりブッ飛ばした(ロケットの噴射炎がはっきり写っている)。
 最後に撮影されたのは冒頭のカーチェイスだった。パトカーを完全に大破冴えるので、出番を先に全部撮り終える必要があったからだ。しかし、すでに資金が尽きていたので、バンがチェイスに巻き込まれるシーンでは、ミラーの愛車が犠牲になった。
 こうして6週間の撮影は終わった。だが、編集資金が残っていなかったため、フィルムは約1年間放置されたのだった。

●サブリミナルな悪夢

 1979年、『マッドマックス』はついにオーストラリアで公開され、自国製映画史上最大のヒット作となった。
 しかし、多くの批評家が眉をひそめ、「これは本番シーンの代わりに残虐シーンを見世物にした暴力のハードコア・ポルノだ」と批判した。ミラーはこう反論する。
「セックスと暴力はたしかに知性ではなく本能に訴えるところで似てるし、僕も『マッドマックス』でそれを狙ったんだけど、誤解があるね。実は、人体を損傷するショットは合計たった50コマしかないんだ。僕は暗示してるだけなのさ」
 たとえばトーカッター一味にガソリンでバーベキューにされたグースをマックスが見舞う場面では腕が一瞬見えるだけなのに、観客はグースの無残に焼け爛れた顔を見たかのように錯覚してしまう。また、マックスの妻子が殺される場面でも、画面に映るのは路上を転がる幼児用の靴だけだ。
「恐ろしいものを直接見せるよりも、恐ろしいことが起こるぞ、と思わせるほうが効果が大きいんだ。コツは、何かが起こると思わせておいて何も起こさないことだ」
 グースがブレーキに細工されたバイクで疾走するシーンでは長回しで延々とセンターラインだけを映し続ける。事故るぞ、事故るぞ、という予感だけが観客の中で膨らんでいく。冒頭で道路を横切る赤ん坊や、マックスの妻が1人で海岸に行くシーンでも、観客は不吉な予感に身悶えさせられる。
「そして、観客が“あー、何も起きなかった”と気を抜いた瞬間に不意打ちを食わせるんだ」

●史上最高のコスト・パフォーマンス

『マッドマックス』の世界配給権を取得したワーナー・ブラザーズは内容の凄まじさに恐れをなし、暴力描写に対する風当たりの弱い日本で最初に公開した(日本公開時の「全世界で大ヒット!」という宣伝はウソ)。日本で大成功した『マッドマックス』はアジア、ヨーロッパ各国でも公開され、オーストラリア映画最初のブレイクスルーとなった。製作費35万ドルの『マッドマックス』が稼ぎ出した利益はなんと1億ドル以上。これは「最も経済効率のいい映画」としてギネス・ブックに記録され、1999年、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』に抜かれるまで王座を守り続けた。

●非合法大陸『マッドマックス2』

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