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『ジョーズ』 スピルバーグの黙示録 史上最大のヒット作は、絶対に完成しないと言われた映画だった 町山智浩単行本未収録傑作選25

文:町山智浩
初出:『映画秘宝』1999年9月号

『ジョーズ』は、僕にとってのベトナム戦争だった。−−スティーブン・スピルバーグ

 1964年、ロングアイランドで2トンを超える巨大なホホジロザメが見つかった。これにヒントを得た若手作家ピーター・ベンチリーは、73年1月に人喰い鮫の小説を書き上げた。タイトルは『JAWS(ジョーズ)』。鮫の上下の顎のことだが、これは映画化されることで、鮫の代名詞になった。

●猿の次は鮫だ!

 まだゲラ段階の『ジョーズ』の映画化権を15万ドルで買ったのは、リチャード・ザナック。『史上最大の作戦』(1962年)や、市場最大の超大作『クレオパトラ』(1962年)を作ったハリウッドの巨人、ダリル・F・ザナックの息子だった。オヤジの後を継いで20世紀FOXの社長に就任し、『猿の惑星』(1968年)を大ヒットさせたのも彼。ところが当時のハリウッドはテレビに押されてどこも不況で、ザナックもついに経営難を理由にFOXをクビになる。独立プロデューサーとなったザナックは相棒のデヴィッド・ブラウンと組んで作った『スティング』(1973年)でアカデミー各賞を独占。ハリウッドに一矢報いた。その2人が次に目をつけたのが、『ジョーズ』だったのだ。

●26歳のスピルバーグを抜擢

 ザナック&ブラウンに出資していたユニヴァーサルは、最初『ジョーズ』を天下のヒッチコックに監督させようとした。ヒッチコックはユニヴァーサルの専属だったし、過去に『鳥』(1963年)という動物パニック映画の傑作も作っているからだ。しかし、ザナックは、『ジョーズ』はパニック映画ではなく、怪物と1人の男との対決の映画だと思っていた。
 その頃、ザナックのオフィスでたまたまゲラを読んだ青年が興味を示した。彼はザナック製作の『続・激突!カージャック』(1974年)で劇場用映画を初監督したスティーブン・スピルバーグ。彼はたった25歳で、怪物タンクローリーと普通の男が対決するTVムービー『激突!』(1972年)を作った天才少年だ。
「あの小僧に賭けてみよう!」

●ブルースの誕生

 最初、ザナックらは、『わんぱくフリッパー』のように鮫を調教して撮影すればいいと考えていた。ところが鮫は芸を覚えられないと知って焦った。
「『海底二万哩』(1954年)の大イカを作った奴を探せ!」
 それを作ったボブ・マティはすでに引退していたが、無理矢理かり出されて8メートルの鮫の実物大モデルを作らされることになった。
 メカ鮫は、スピルバーグの弁護士の名を取ってブルースと名付けられ、スタジオ内で極秘に製作された。

●前代未聞の海上オールロケ

 それまでのハリウッドでは、この手の海洋映画を撮るときは、スタジオ内のプールで撮り、背景を合成するのが基本だった。しかしスピルバーグはそれがどうしても嫌だった。
「そんなことをしたら今まで通りの作り物めいたハリウッド映画になってしまう」
 当時のハリウッドには1968年の『俺たちに明日はない』以降、ニューシネマ旋風が吹き荒れていた。ニューシネマの最大の特徴は、ハリウッドのセットから飛び出して現実の風景のなかでオールロケすることだった。その方法はドキュメンタリー・タッチのリアルさを生むと同時に、スタジオの頭の固いジイサンどもの監視を逃れて自由な映画作りができるという利点があった。
 結局、スピルバーグの主張が通って、マサチューセッツ州のマーサズ・ヴィニヤーズ島でのロケが決定した。
 一方、74年1月に発売された『ジョーズ』の原作はベストセラーリストに44週ものランクインを果たし、おかげで製作予算も約350万ドルで会議を通過した。しかし、オーストラリアでの水中撮影と鮫の製作、そして原作の権利金などで、すでに約50万ドルが費やされていた。

●できないシナリオ

 最も難航したのがシナリオだった。最初、ベンチリー自身が脚本を書いたが、内容は原作通りで面白くなかった。登場人物たちの内面が描かれていないし、銛を打ち込んだ鮫ハンターのクイントが鮫と共に海中に沈んでいくという『白鯨』風のラストもカタルシスがなさすぎる。
 スピルバーグは自分で書き直して、原作にある警察署長ブロディの妻と海洋学者フーパーの浮気シーンを「気持ち悪い」とバッサリ切ってしまった。ラストも鮫が爆死する大団円に書き換えた。しかし、スピルバーグ版は、クイントが『白鯨』(1956年)上映中の映画館で、グレゴリー・ペック扮するエイハブ船長を観て笑ってたり(ペックから使用許可がもらえず断念)、TVで『Z旗あげて』(1957年)を観ている男が鮫に襲われたり、スピルバーグ流オタク遊びがすぎた。
 そこでザナックは、別の仕事でハリウッドに立ち寄ったベテラン・ライター、ハワード・サックラーに依頼した。クイントがインディアナポリス号事件の生存者だというアイデアはサックラーのもの。これは実際にあった事件で、太平洋戦争中、日本軍に沈められた米海軍の戦艦インディアナポリス号の生存者が鮫に襲われてほとんど全滅した悲劇(後にTVムービーになっている)。これによってクイントの鮫狩りに「復讐」という動機づけができた。
 しかしサックラーは時間不足でシナリオを完成させることができなかった。スピルバーグは友人のカール・ゴットリーブ(1981年に『おかしなおかしな石器人』を監督)に書き直しを依頼したが、未完成のまま撮影開始日に突入、ゴットリーフはスピルバーグと一緒にロケ地に飛び、書き直しを続けた。

●台本は一夜漬け

 4月終わり、いよいよ撮影だというのに、依然としてシナリオもキャスティングも決まってなかった。スピルバーグはロケ先のホテルで3日間ぶっ通しのオーディションを行い、リチャード・ドレイファスもその段階でやっと出演が決まった。
 1974年5月1日、撮影開始。スピルバーグは、毎朝午前7時半から12時間以上ぶっ通しで撮影を行い、日が暮れると、ゴットリーフと2人でシナリオを書いたが、一向に進まない。ついに主役俳優がキレた。「小僧、オレに貸してみい」ということで、ロイ・シャイダー、ロバート・ショー、ドレイファスの3人が毎晩スピルバーグを囲んで翌日撮影するぶんのシナリオを練った。それを徹夜でゴットリーフがタイプして、翌朝ハリウッドにいるザナックスにテレックス、OKが出たところでコピーして全員に配る、という地獄の毎日がロケ中ずっと続いた。
 3人が傷を自慢しあう名場面はロバート・ショーのアイデア。このシーンは『リーサル・ウェポン3』のメル・ギブソンとレネ・ルッソのラブ・シーンでパロディにされている。

●ぽんこつブルース

 本編のスターであるブルースは塗装を待たずにロケ地に運ばれ、海中に投げ込まれた。実は海水でのテストはこれが初めてだったのだ。スタッフの期待も虚しく、ブルースは動かなかった。重すぎるうえに、ブルースを動かす滑車は塩水ですぐに錆びてしまうのだ。ブルースは撮影中ひっきりなしに故障し、撮影スケジュールを遅らせる最大の原因になった。10回に1回もまともに動かなかったので、うまく動いたときは全員が神に感謝したほどだ。最近出たLDには(編注:1999年当時)、鮫が止まってしまうNGカットが収録されていて爆笑だが、現場は泣いただろうな。

●ホントに沈んだオルカ号

 撮影監督ビル・バトラーは観客にブロディたちと同じ体験をさせるために、揺れ動くオルカ号の上で手持ちカメラで撮影した。これが画面にドキュメンタリー・タッチとヴァーチャル感をもたらした。
 オルカ号の孤立無援の極限状況を表現するために、スピルバーグは360度の水平線のどこにも陸地も船も見えない状態で撮影したがった。けれど、ロケ地はリゾート地である。しょっちゅうヨットが通りかかり、そのたびにNGになった。おまけに天候がコロコロと変わり、それも撮影を長引かせた。
 オルカ号はボストンで使われていたロブスター漁船なのだが、撮影中に浸水して俳優とスタッフごと沈没してしまった。ケガ人はなかったが、「この映画、本当に呪われてるぜ」とスタッフの不安は増すばかり。

●終わりなき戦い

 シナリオの遅れ、ブルースの故障、天候の不順などのトラブル続きで、1ヶ月の予定だった撮影は3ヶ月に延び、それでも出口は見えてこなかった。夏休みが始まり、ロケ現場には観光客が集まり、撮影に支障をきたすばかりか、宿泊施設の値段が3倍にハネ上がった。スタッフやキャストは家族に会えないことで不平を漏らし始め、現場の空気は険悪になる一方。食事の最中、ちょっとしたことで食べ物投げ合戦が始まるほどだった。さらに悪いことに子役以外の全員がスピルバーグよりも年上で、彼には居場所がなかった。
「こんな映画、やるんじゃなかった。降りたい」スピルバーグは何度も音を上げたが、現場に訪れたシャインバーグの説得で思いとどまった。
「変更に次ぐ変更で、当初の予定通り撮れたカットはひとつもない」と言うスピルバーグの頭には尊敬するフランソワ・トリフォーのこんな言葉が渦巻いていた。
「映画を作る前は、いい作品を撮りたいと思う。けれど撮り始めてしまうと、願うのは早く終わることだけだ」
 スピルバーグは、たとえ『ジョーズ』が完成したとしても、きっと駄作になって、自分の監督としての人生も終わりだろうと思っていた。

●荒くれ船長一触即発

 始終酒びたりのロバート・ショーはイライラを若手俳優リチャード・ドレイファスにぶつけ、何かと彼をイビっていた。劇中のクイントとフーパーの仲の悪さは本物なのだ。
 ショーが酔ってインディアナポリス号の悲劇を物語るシーンは自らシナリオを書き直すほど入れ込んでいて、現場では「酔ったフリじゃダメだ。本当に酔わなくちゃ」と酒を飲んで撮影されたが、ベロベロになって失敗。翌日、シラフで撮り直された(しょうがねえな、オッサン)。

●鮫をできるだけ見せるな!

 上がってくるフィルムのラッシュを観て、ザナックたちは頭を抱えた。天候がコロコロ変わるために各シーンの色調はバラバラ、それに、行き当たりバッタリで撮影していったために、カットどうしのつながりがガタガタ。おまけに肝心の鮫がどう見てもチャチな作り物にしか見えないのだ。そこで活躍したのが名編集者ベルナ・フィールズ。このオバサンとスピルバーグは話し合いの結果、鮫の登場シーンをほとんどカットし、泳ぐ鮫の視点による水中撮影シーンで穴埋めした。あのシーンは『ジョーズ』のトレード・マークだが、実は苦肉の策だったのだ。

●ベンチリー激怒

 ザナックは話題作りのために原作者のベンチリーをTVニュースレポーター役で出演させることにしたが、スピルバーグは会いたくなかった。再三の書き直しの結果、ストーリーはもはや原型をとどめていなかったからだ。
 案の定ベンチリーは激怒、マスコミのインタビューで、「自分の原作が映画屋たちに集団レイプされている」と語った。一方、スピルバーグは「ベンチリーの原作には1人として共感できるキャラクターが出てこない」とやり返し、2人の関係は泥沼化。ベンチリーは「スピルバーグは人間ってものがわかってない。将来はせいぜい第二班監督(アクション専門)さ」と罵倒して、後で後悔することになる。

●カナヅチのスピルバーグ

 スピルバーグは「映画は自分の恐怖症セラピーだ」と語る。「インディ・ジョーンズ」シリーズの虫や爬虫類、『シンドラーのリスト』のユダヤ人虐殺など、彼は常に自分の怖いモノを敢えて描いてきた。『ジョーズ』のブロディを水恐怖症にしたのはスピルバーグ自身がカナヅチだからだ。ブロディが立ち尽くす場面では逆ズーム(トラックダウンしながらズームアップする)が使われているが、これはヒッチコックが『めまい』(1958年)で高所恐怖症を表現するために使ったカメラワーク。

●スピルバーグ大脱走

 遅れに遅れた撮影で、スタッフのイライラは限界に達していた。スピルバーグは、最後のカットを撮り終わった途端に、スタッフに胴上げされて、そのまま海に投げ込まれてしまうだろうと想像して怖くなった。そこで、海に投げるのをためらわせるような超高級のスーツを着たうえに、ボートを待機させて、撮影が終わった瞬間、それに飛び乗り、「もう二度と戻るもんか!」と言い捨てて逃げ出した。小心者!

●鮫と半魚人

『ジョーズ』はユニヴァーサルにとっては、50年代の『大アマゾンの半魚人』シリーズ以来、ひさびさのモンスター映画だった。「太古から進化していない生物」という部分で鮫と半魚人が共通するためか、スピルバーグは鮫の断末魔にユニヴァーサルのライブラリーにあった半魚人の声を流用した。ちなみに同じ声が『激突!』でのタンクローリーの断末魔にも使われている(鮫とか車って鳴くのか?)。また、鮫の視点による水中撮影、オルカ号が立ち往生するシーンなども、『半魚人』からの引用だ。

●ジョーズのテーマはパクリ?

 スピルバーグは音楽を『続・激突!カージャック』で組んだジョン・ウィリアムズに依頼した。スピルバーグは、ストラヴィンスキーみたいな感じ、と注文した。というのも彼の大好きなディズニー・アニメ『ファンタジア』(1940年)で恐竜世界のテーマとして使われていたのがストラヴィンスキーの「春の祭典」だったからだろう。そのなかでもティラノザウルスが出現する場面の旋律を、ウィリアムズは、鮫が水中を泳ぐ場面の「ズンズンズン」というテーマにアレンジした。これで彼はアカデミー作曲賞を受賞するが、誰も「パクリやん」とは言わないんだよなあ。

●ショックのためなら

 最初のスニーク・プレビューは75年3月、ダラスのショピングモールの劇場で行われた。ブロディが撒いたエサを鮫がバクっとするシーンで場内は目論見どおり絶叫に包まれた。
 ところが、船底から死体の生首が飛び出すシーンは悲鳴が思ったよりも小さかったので、スピルバーグは撮り直しを要求。スタジオから却下されたので、結局3000ドルを自腹で出し勝手に撮り直した。
 また、スピルバーグは画面を海と空の青で統一し、赤いものを映さないようにしたうえで、鮫が海水浴客を襲うシーンでいきなり大量の血を噴出させて観客の度肝を抜いた。何がなんでも観客にショックを与えたいというスピルバーグの情熱は最近の『プライベート・ライアン』まで一貫している。
 そんなスピルバーグの心配は、残酷描写のせいでR指定にされることだった。ユニヴァーサルは「鮫のやることは誰もマネできない」と主張して、食いちぎられた片足が海底に沈んでいくショットで血の吹き出る部分を数秒つまんだだけでPG指定を勝ち取った。

●史上最初のブロックバスター

 スニーク・プレビューでの観客の阿鼻叫喚を見たユニヴァーサルは、1975年6月20日、『ジョーズ』を史上最高の劇場館数で公開。さらに多額の宣伝費を注ぎ込んで、悪名高いブロックバスター方式がここで生まれた。
 しかし、『ジョーズ』をヒットさせた本当の力は口コミだった。スピルバーグはロスの31アイスクリームに行って驚いた。
「客が全員、『ジョーズ』の噂話をしてたんだよ!」
『ジョーズ』は、またたく間に収益1億ドルを突破。コッポラの『ゴッドファーザー』を抜いて史上最高のヒット作となり、この記録は1977年の『スター・ウォーズ』まで抜かれることはなかった。

●スピルバーグ映画としての『ジョーズ』

『ジョーズ』にはスピルバーグ映画の要素のすべてがある。ブロディは、『激突!』や『未知との遭遇』でおなじみの、平凡で弱い主人公。その彼が、幼い子供が危険にさらされたときに戦いを決意するのも、『ジュラシック・パーク』や『シンドラーのリスト』と同じ。そして、ブロディが海嫌いを克服するラストも、未成長の主人公が過酷な試練を経て「男」になるという『太陽の帝国』などに続く「通過儀礼」テーマだ。そのおかげで『ジョーズ』は冒険活劇の快作になった。その後の続編『ジョーズ』や亜流映画がことごとく失敗したのは、ただのパニック映画にしてしまったからだろう。

「聴く映画秘宝 町山智浩のアメリカ特電13回」スピルバーグ『フェイブルマンズ』


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