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REVIEW 『ゴジラー1.0』ゴジラにかけられた呪いは果たして解けたのか?

 山崎貴監督作『ゴジラ−1.0』は時代考証や人間ドラマの配置などで批判を浴びつつも、7年ぶりの東宝怪獣映画として多くの観客から支持されている。筆者は熱狂的にこの映画を推すつもりはないが、「ゴジラ」シリーズの前作『シン・ゴジラ』(2016年)に続き、さらには2001年に金子修介が『ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃』で、「ゴジラ」シリーズに常に付きまとった“呪い”を解くべく努力をしているなと考えた。
「ゴジラ」シリーズにかけられた“呪い”とは何か?
 それは日本でオタク文化が誕生した、まさにその瞬間に生まれたものだと捉えている。今回の『ゴジラ−1.0』についてたくさんの言葉が行き交っているが、その中でもとりわけ目立つ「ゴジラが現れたときの絶望感」「恐怖」といった言葉を見ると、今から44年前に日本の特撮映画を本格的にまとめた『大特撮 日本特撮映画史』(有文社刊)を著したグループ、コロッサスの打ち立てたテーゼの縛りの中にいるのだと思う。コロッサスこそ日本のオタク文化を書籍という形で世に問い、80年代に起こったゴジラ復活ムーブメントの基礎となる復刻版『大特撮』、そして『世界怪獣大全集』(共に朝日ソノラマ、1980年、1981年刊)を発表した集団だ。亡くなられた池田憲章をはじめとする世代が第一次オタクだとすると、コロッサス(開田裕治、佐竹則廸、竹内義和といった面々の名前も残っている)もまた同じ活動をしていたことになる。共にジャリ番とされた怪獣映画を映画として批評し、特撮怪獣映画というジャンルを厳しくも愛情を持って批評している。その姿勢がリアルで怖いゴジラ映画を欲してしまう「呪い」となっている。
 コロッサスが強く打ち出したテーゼ(呪い)は「怪獣映画は恐るべきものでなくてはならない」というものだった。そこでよく使われた言葉が「絶望」「恐怖」だ。この強い言葉は本多猪四郎による『ゴジラ』(1954年)を評して使われており、以後の作品の評価軸にもされている。その批評眼はとても厳しいもので、今では異色作でこそあれど「怖いゴジラ映画」として認知されている『ゴジラ対ヘドラ』について、『大特撮』は以下のように断じる。

(東宝が『決戦!南海の大怪獣』は意欲的だったが評価を得れなかったため)その結果登場したのが一年後の『ゴジラ対ヘドラ』である。もはや完全にゴジラを善玉怪獣として描く前提が出来てしまった上でのシリーズ第一作となったこの作品は、公害によって生まれ、公害を吸収して成長し、変貌するという新怪獣ヘドラのキャラクターと、その変形ぶりを描くための特撮以外には特に見るべきところもなく、ドラマらしいドラマも作られていない。しかしヘドラのキャラクターの強烈さのため、ゴジラが突然放射能を吐いて空を飛ぶという唐突な描写さえあるにもかかわらず、不思議に今なお、ある程度以上の人気を持っている。

 今ではアバンギャルドとそのメッセージ性が高く評価されている『ゴジラ対ヘドラ』であって、この評価だ。近頃の特撮記事がちょっとした笑いのネタとして変に熱っぽく記事にしたりしている『ゴジラ対メガロ』はタイトルが書かれているのみだ。『ゴジラ対ヘドラ』から『メカゴジラの逆襲』までの“第二期”をコロッサスは次のように総括する。

 しかしながら残念なことに第二期に入ってからのこのシリーズでは、作劇と特撮がそれらのキャラクターを本当に生かせるほど綿密に構成されていなかったことが致命的だ。子供向けという次元に明らかに開き直ってしまったこのシリーズは、もはやそこに映画としての、何の飛躍性も産み出し得なくなってしまっていたのである。

 この厳しい視点は、特撮怪獣映画の基準を54年版『ゴジラ』に設定し、あの映画の“怖さ”“絶望感”がその後のシリーズに引き継がれているかを論じている。この強い批評の線引きは後々の「ゴジラ」シリーズに親しむ者にとっては呪いであり、現在の若い特撮ファンからすると平成VSシリーズやミレニアム・シリーズを経ていない老害と受け止められるかもしれないだろう。しかし筆子はコロッサスによるこの厳しい評価があってこそ、『GMK』『シン・ゴジラ』『ゴジラ−1.0』が作られたのだと考える。金子修介も、庵野秀明と樋口真嗣も、山崎貴も、コロッサスが残した2冊の本を間違いなく読んでいると思う。彼らが作った容赦なく人々を殺し、日本を蹂躙する水爆大怪獣の姿には、コロッサスが怪獣映画に求めたものがある。『世界怪獣大全集』に収められた「日本怪獣映画史 ゴジラとその後継者たち」にはこう記されている。

 怪獣登場から都市襲撃、破壊、そして、怪獣の最後まで、『ゴジラ』はその怪獣をメインとしたドラマと完全に融合し一大劇映画を完成している。怪獣をズバリ恐怖の対象として描いているところが『ゴジラ』の特徴である。つまり日本の怪獣映画は、“恐怖”という観点から出発しているのだ。
(略)
日本の怪獣映画は『ゴジラ』の時から、あくまでも“恐怖”から出発し、そしてそれが怪獣映画の本質のはずなのだ。本質のない怪獣映画、怪獣達はすでに死んだのも同然なのだ。
 真の怪獣映画はいつ再び甦るのだろうか。

 コロッサスのこの問いかけに、大森一樹は『ゴジラVSビオランテ』で子供たちが描く絵のショットを、金子修介は平成「ガメラ」三部作を経て『GMK』で太平洋戦争の怨霊を撮った。『シン・ゴジラ』の不穏なラストショット、そして『ゴジラ−1.0』で海面から“ぬっと”顔を出して追いかけてくるゴジラ(この“ぬっと”登場するゴジラの恐ろしさは切通理作による『本多猪四郎』をはじめとする著作でも指摘される、日本の怪獣映画のショック・シーンだ)も、怪獣映画を恐怖映画に引き戻す試みがあるように思える。
 21世紀に入り、怪獣映画にかけられた呪いは解かれた。コロッサスが夢見た怪獣恐怖映画は確実に生まれ変わり、復活したのだ。
(本文敬称略)

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