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小椋佳から、

井上陽水の歌曲が好きで、
『放課後』は忘れられない映画(栗田ひろみも、良かったですねぇ~~~~~)、
で、この映画の音楽プロデューサーに多賀英典がいることの謂われが気になっていたのだけれど。
昨夜からのnhk ラジオ深夜便1時台のアーカイブを聞いていて、そのあたりが判明した、と思った。
今夜のそのアーカイブは、今年の夏(8月だったか?)放送の、4時台のもので、
小椋佳だった。

『放課後』、東宝配給
1973/03/03公開。
監督、森谷司郎。脚本、井手俊郎。
音楽プロデューサー、多賀英典。
出演、栗田ひろみ、地井武男、宇都宮雅代

小椋佳の初レコードアルバムを世に出したのが多賀英典だったのは知っていた。
多賀英典が、小椋佳のレコードを出そうと思ったのは、天井桟敷(寺山修司主宰)レーベルレコード第一弾『初恋・地獄編』で、小椋佳の歌声を聴いたからだった。羽仁進監督の映画(1968年)があることは知っていたけど、レコードの方は知らなかった。
小椋佳と寺山修司との接点は良く判らない、けれど、小椋佳が学生時代の頃に寺山修司を師事していたらしい。?
というか、
音楽コミュニティサイト「TAP the POP 」での記事によれば、
http://www.tapthepop.net/extra/88148
「学生時代に暫く師事する形になった寺山修司から、電話」となっている。1969年のことだ。
そうして、神田こうじ(小椋佳の本名)は、その『初恋・地獄編』レコードの歌い手として参加した。この時、初めて「小椋佳」を名のった。

多賀英典はこのレコードを聴いて、小椋佳に会いに行った。
そうして、1971年1月、小椋佳の初レコードアルバム『青春―砂漠の少年―』が作られた。(小椋佳を歌手としてデビューさせるのは早々にやめて、作者の世界観を出す意味で、いきなりのアルバム作りだった。)
このレコードアルバム、作られたけれど、発売をめぐって、多賀英典は会社(ポリドール)の重役らと衝突、大阪営業所へとばされた。
この、大阪で、映画監督・森谷司郎と知り合い、森谷司郎監督映画『初めての旅』(1971)、『初めての愛』(1972)で、多賀英典は音楽プロデューサー、
『初めての愛』で、小椋佳の『少しは私に愛をください』が挿入歌として使われた。
そうして、森谷司郎監督映画『放課後』(1973)でも、多賀英典は音楽プロデューサー。この映画で、井上陽水の歌曲を使った。
『いつの間にか少女は』と『夢の中へ』だ。
多賀英典は、『放課後』で、映画製作に関わったのではなく、その前があった。

余談になるが。
こういったことがあって、井上陽水のレコード発売でも、同じくアルバム発売、となった、・・と思っていたら、
井上陽水の初レコードアルバム『断絶』発売は1972年5月で、その前に、1972年3月発売のシングル『人生が二度あれば』があった。つまり、いきなりアルバムデビューではなかった。
いずれにせよ、レコードプロデューサーは、どちらも多賀英典。

多賀英典は、ポリドールを退社後、1972年10月キティミュージックコーポレーションを設立。
1979年にキティフィルム設立、映画製作に進出(第一作映画が『限りなく透明に近いブルー』)。キティフィルム会社設立は1982年3月になっている。

多賀英典については、前記した。


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