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『天路の旅人』

確か、『天路の旅人』という本は、Facebookで、友達が記載していたのを見たことで、初めて知ったのだと思う。
それから、カトマンドゥ道場に行ったら、そこに西川一三の中公文庫本があって、読んだのだった。

だから、この『天路の旅人』を読む前に、西川一三の著作本を読んでいたのだが、正直なところ、それは流し読みになった。・・?
やはり、記述文章のせいか?

『天路の旅人』

2022年10月25日発行。

2023年2月25日5刷。

これは、沢木耕太郎が、西川一三という人物に抱いたものが動機となって著された。
沢木耕太郎が、どういうわけで「西川一三」という人物の名前を記憶する様になったのか?そこらの詳細は、この本にはなかった。
とにかく、「会ってみたい」と思う様になってから何年か過ぎて、岩手県一関市に仕事で行った時に、地元紙の連載記事に「西川一三」のことが、西川の経営する「姫髪」という店名と共に載っていて、記憶に残った。

その後、「東京の仕事場で、どういうつもりもないまま、その店名から電話番号を調べると、すぐにわかって逆に驚かされた」。
「そして、思った。これはいい機会なのかもしれない」
沢木耕太郎の方から電話して、それで盛岡駅で待ち合わせることになった。

「今から四半世紀前の初冬のことだった。」
『天路の旅人』はこの文章から始まる。

序章の次、第一章は『現れたもの』。
そこで沢木は、どのように書けばいいかわからないという戸惑いを書いている。

そこで、いったん盛岡行きを中断したい旨、西川に伝えた。
その中断中に、西川一三死去を知る。そこで、「諦めようと思った」。
その後、西川の一周忌にせめてお線香をと思い、盛岡行きを計画するのだが、それがすんなりとは実現しなかった。

それからまた何年も過ぎた。

西川夫人が彼をどのようにみていたかといっところが気になって、また電話してみた。
その時に出たのは娘さんで、娘さんのニュアンスから、沢木はそれも叶わないだろうと、ついに完全に諦めるべき時がきた、と思った。ところが、数日後に、娘さんから電話がきて、そうして、盛岡へ向かった。

夫人の名前はふさ子。
ふさ子さんから聞けた話しが書かれてある。
西川一三との出会いとか。

その後、西川一三が書いた生原稿に関する記述があり、結局、沢木の手元にそれが届けられることになって、・・・
西川一三との盛岡(盛岡駅ビル中の居酒屋)での会話の録音テープの中の言葉と、その生原稿との突き合わせが始まり、その二つの突き合わせから、沢木の西川一三を描く旅が、ようやく始まりだした。

第二章から十四章まで、西川一三の旅の記述。
例によって(私は沢木耕太郎の『凍』という本について書いている)、沢木の描写は、あたかも自分がそうしていたかの様に書かれてある。

そこが、沢木耕太郎たる所以であり、私が沢木耕太郎の文章が好きなわけでもある。。

やはり、プロというべきか。
流し読みしてしまった西川一三の自著の文章とは、明らかに違った。
おそらく、私が昔の人のチベットへの旅(それも中国側からの)にもっと関心を抱いていたなら、流し読みなどしなかっただろう。
とりあえず、カトマンドゥ道場にあって、それを見つけて読んでみた、程度だった。
改めて、西川一三の自著を読んでみたいと思っている。

あとがきで、沢木はこう書いている。

「西川一三を書く。しかし、その彼が自らの旅について記した『秘境西域八年の潜行』という書物がありながら、あえて彼の旅を描こうとするのはなぜなのか。私は、何度も、そう自問した。そして、やがて、こう思うようになった。私が描きたいのは、西川一三の旅そのことではなく、その旅をした西川一三という稀有な旅人なのだ、と。」

あとがきで、さらに。
「西川一三の旅も長かったが、その彼を描こうとする私の旅も長かった」、と。

そうして、あとがきの最後は、
「状況が好転したら、なんとしてでも、中国の内蒙古からインドまでの旅をしてみたいと思っている。そのとき、私の『天路の旅人』は、いちおうの完結を見ることになるはずだ。2022年9月」

西川一三を描こうとする沢木耕太郎の旅も長かった。

発端からは25年、本格的に執筆にとりかかってからは7年。けれど、けして飽きなかった、と沢木はあとがきで書いている。

この本で沢木耕太郎も書いている様に、鎖国していたチベット潜入日本人は7人いる。

ここで、私はやはり、こんな思いを抱く。
どうして西川一三だったのだろう?、と。

ひとつには、たまたまの縁があったから、と私は考える。

なんか、会ってみたいという気持ちをずっと抱いていて、たまたま、電話番号がアッサリ判明して、電話してみたら繋がって、会う約束をした。会いに出かけて行った。

では、その他の人物には?
その他の人物、特に木村肥佐生(木村は、西川と同様に西域への潜入旅をした)。木村にも、会おうと思えば会えたはずだ。
しかし、会っていない。
木村の書いた本についても触れているが、それはあくまでも、西川(の書いた本)との関連の文脈の中におけるもの。

木村肥佐生ではなくて、どうして西川一三だったのだろう?、という思いはする。

その、人生の違いだろうか?

どうして西川一三だったか?、そこのところは、実はハッキリしない。

沢木自身、その理由をハッキリと書いてはいない。

木村肥佐生にも会ってみて云々ではなくて、とにかく、(先ずは)西川一三に会ってみたくなって会ってみた、そうしたら、いろいろ経緯はあったにせよ、書いてみようとする活路が見出だせてきた。初めからすんなり事が運んだのではなくて、細い縁が切れなくて続いていった。

いったん、西川に会いに行く盛岡行きを中断した、その最中に西川が亡くなってしまった、けれども、そこで終わりにならなかった。

序章で書いている様に、初めから本にしようと思っていたわけではなかった。
たとえそうであったとしても、沢木は会っていきなり取材には入らない。

とにかく、先ずは会ってみた。

それから、沢木の「西川一三という人物を描く」旅が始まった、のだ。

勿論、西川一三でなくてもよかった(はず)、そんな思いが私にあるにせよ、

これは、
この本は、西川一三を描く沢木耕太郎の旅の本なのだ、私はそう思う。

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