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 「落下の解剖学」の感想

これはミステリー映画ではない

この映画のポスターにはこんなキャッチコピーが書かれている。

「雪山の山荘で、男が転落死した。男の妻に殺人容疑がかかり、唯一の証人は視覚障がいのある11歳の息子。これは事故か、自殺か、殺人か。」

わかりやすくてスリリングなコピー。

いかにも意外すぎる新事実が物語の途中で明らかになり、一体誰が犯人なのかが解き明かされ、そしてなんなら大どんでん返しまで巻き起こりそうな気配。

でもこの映画の面白いところは、そういったお約束的なミステリー映画の展開を一切しないところだ。

この映画の肝は、この事件の唯一の「真実」が描かれているはずである事件当日の様子が、映画冒頭10分であっさりと描かれてしまうところにある。

「真実」は映画冒頭10分にしか存在しない

この冒頭部分の映像はクローズアップが多い。

時たま特定の人物の視点や固定された視界で描かれていたりする、視野が狭く、被写界深度が浅い映像が淡々と続く。

その場で何が起きているのか、あえて観客が全体像を捉えることができないように描かれている。

つまりこの10分間、いくらスクリーンに目を凝らしてみても事件の真相はわからない。都合よく画面の端に隠された伏線やヒントなど存在せず、昨今の”考察”ブームや”陰謀論”的な深読みに対する挑戦状とも取れる。

そしてその肩透かしなまでにあっさりとした事件当日の様子が描かれた後、被害者の司法解剖シーンが描かれ、ようやくオープニングクレジットが始まる。

別の言葉で言えば、この事件の客観的「真実」は映画冒頭10分にしか存在しない。そしてそれはどう捉えても全く釈然としないもの。

ではその後、約150分もランタイムがあるこの映画のほとんどが何を描いているのかというと、夫殺しの容疑をかけられた妻であり母でもある主人公サンドラの裁判シーンだ。

息が詰まる法廷シーンを見ながら「これは一体何を見させられているんだろう」と考えてみた結果、一つの答えが見つかった。

この裁判シーン自体が「解剖」なのかもしれない。(映画のタイトルそのままじゃん!)

とっくの昔に死んでたのは

そもそも主人公サンドラに殺人の疑いがかかるのは、この夫婦関係が実は全くうまく行っていなかったことが裁判で明らかになっていくからだ。

夫との確執や言い争いの存在が、さまざまな証拠や証言によって浮き彫りになっていく。

夫の死をきっかけに、事件直前までなんとか取り繕っていた、すでに破綻寸前、いやとっくに破綻していた夫婦関係が明るみに出て、口喧嘩の詳細や二人の性生活等、絶対に他人には知られたくないことが白日の下にさらされる。

多少名の知れた作家である彼女のセンセーショナルな殺人容疑にはメディアも群がる。

「私たちの結婚生活はなぜ、そしていつからうまく行かなくなったんだろう。」

この裁判で大衆の面前で検証され、辱められながら解剖されているのは、いつの間にかすでに死に絶え、冷え切っていた彼女の結婚生活そのものなのではないか。

彼女は裁判という過程において、正義の名のもとに他者に恥部とも言うべきプライベートを覗き込まれ、過去の心の傷を一つ一つえぐられながら、それらが幸せだったはずの結婚生活そのものの”死”にどのように繋がったかについて、勝手な理由付けをされる過程はグロテスクで生々しい。

息子の目

主人公サンドラと亡くなった夫の間には、視覚障がいのある11歳の息子がいる。

観客と同じく彼もまた、自分の家族に突然起きた不幸な出来事に必死に説明をつけようとする。

なぜ父は死んだのか。
なぜ母が父を殺したのか。
なぜ父は自ら命をたったのか。
なぜ父と母の関係は崩れてしまったのか。
自分がそれを止めることは出来なかったのか。

どのようにその「落下」が起きたのか。

真実を見えないながらもなんとか必死に自らの「解釈」を探し求める彼の姿は、物事を公平な目で見ることの難しさを教えてくれる。

そこにあるのは過去に基づく現在の解釈だけだ。

そういえば、裁判で真実を明らかにするまで活動休止を宣言している松本人志の報道を見るたびに思うが、当人含め、多くの人々が「裁判では真実は明らかにならない」ということを忘れているのかも知れない。

この映画を見てふとそんなことを思った。

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