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一人称の波音

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一人称の波音 20(終)

海辺の彼女へ宛てた手紙は、いろいろな場所をたらいまわしにされて、およそ2週間後に僕の手元に戻ってきた。言葉は、伝えたい相手に届かなければ、その存在意義を失う。存在意義を失った言葉は、宙を舞い、ひとしきり思いをめぐらせてから、元の場所へ戻ってくる。ブーメランと同じだ。行き先なんてはじめから存在していない。 

 ごく、簡単な手紙だった。おいしい焼きそばと、祭りを、ありがとう。なんとかトンネルは抜け出

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一人称の波音 19

バー・フォールズのカウンターで、阿部は相変わらず難しそうな本を読んでいた。マスターは、なにやら焼き物のような料理を作っている。香りから推測するに、チキンを香草でゆっくりと炒めているのだろう。チキンの匂いに混じって、かすかなハーブの香りが店内を満たしていた。 阿部は、ビールを飲んでいた。車を走らせたあとからずっといるのだろうか。テーブルには3品以上の食器が置かれていた。小食で、頼んでも2品であるいつ

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一人称の波音 18

彼女は、自宅でパスタを茹でているところだった。彼女はシンプルなブルー・ジーンズにTシャツといった格好で、クラシックを聞きながら、自分のリズムを刻んでいた。

 「けっこう、早かったのね。阿部君が言っていた時間より30分くらい早い。まだ、夕食、できていないのに。」冷蔵庫を開けると、シーザー・ドレッシングと、トマトとレタスのサラダがきれいに皿に盛り付けられ、ラップをされた状態で保存してあった。僕は彼女

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一人称の波音 17

「待たせたな。」僕の部屋に入ってくるなり、阿部は煙草に火をつけた。煙草の煙はゆっくりと宙を舞い、やがて窓から入ってくる風に押し流され、僕の視界から消えてなくなった。彼らには主体性というものはおそらくないのだろう。主体性がなければ、意識も無い。僕には煙の存在を感じ取ることは出来なかったし、それがあるのか、ないのかさえほとんどわからなかった。

 このとき、僕には、阿部の意識をはっきりと感じ取ることが

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一人称の波音 16

朝、起きると、おかみさんはあたたかいスープを出してくれた。朝に肌寒さを感じるようになると夏ももう終わりだという実感がわいてくる。しかしこのとき、スープを飲んではじめて、ぼくたちの体がどれだけ温かい飲み物を欲していたかがわかった。スープを飲んでいるあいだ、僕たち3人はひとこともしゃべらなかった。実を言うと僕は、混乱していたのだ。自分の音と、自分の光をさえぎる何かが消え去った今となっては、僕の目に映る

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一人称の波音 15

 その夜、僕は彼女と寝た。

 いや、寝た、という表現はもしかすると正しくないのかもしれない。僕と彼女は、手をつないだまま、布団の中で、朝を迎えた、ということだ。弁解のように聞こえるかもしれないが、僕たちは口付けすらしていない。僕たちは、ただ、手を離したくなかったのだ。僕の意識を開放してくれた彼女と、その意識を共有していたかったのだ。僕たちは寝た後も、互いの位置を正確に把握することが出来た。左手と

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一人称の波音 14

地方のひっそりとした祭り、という雰囲気で、浜辺には100人には満たないであろう人が思い思いに海を見つめていた。

 浜辺には等間隔に灯されている松明が、おおよそ20くらいもあり、その明かりで僕らはなんとか海と陸を見分けることが出来た。何か屋台が出ているわけでもなく、その場所を日常と違う風景にさせているのは、通常よりは多いであろう人の数と、そして松明だった。横を走る道路を走る車は、ここで祭りが行われ

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一人称の波音 13

浜辺のすぐ脇にはちょっとした洞窟がある。以前訪れたときに見て以来、気になっていた。気になっていたといってもわざわざ中に入って調べるほどのことはしていないが、なんというか、洞窟、というものをいままでほとんど見たことが無かったし、ドラマや漫画に出てくるような、いかにも洞窟、という情景にぴったりだったせいもある。

 僕が洞窟に興味を持つ理由を、昔はうまく説明できなかった。それを説明しようとすると、いつ

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一人称の波音 12

 民宿に着くと、彼女は縁側に浴衣姿で、空だか海だかを眺めていた。

 「その服、あまり洗っていないでしょう?脱いで。そして代わりにこれを着てきて。あ、その前に、シャワーを浴びていらっしゃい。けっこう歩いたんでしょ?」彼女は僕に甚平を渡し、僕がシャワーから出るともう僕が着ていた衣類は消えていた。仕方なく僕は甚平に着替え、縁側に座っている彼女の元へ急いだ。時刻は、夕方の5時くらいだった。2週間前くらい

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一人称の波音 11

 朝日がまぶしくて、目が覚めた。僕はこの民宿の一室をおかみさんの好意で借りさせてもらっている。6畳の、テレビと布団のほかには何も無い部屋だ。ほとんど着替えらしいものも持ってきていなかったが、下着さえ毎日洗濯すれば、あとはどうにでもなった。なにしろ、季節は夏なのだ。寒さをしのぐための服は必要ない。まだ朝食には時間があったので、寝る前に読みかけた本を読んだ。その本の登場人物は、自分が実態を持たない存在

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一人称の波音 10

 夢を見た。

 夢の中で僕は、バー・フォールズにいる。僕の隣には彼女が座っている(海でであった女の子ではない。)僕の帰省する町に住んでいる、僕のいわゆる”彼女”だ。僕たちはバーのカウンターに座り、マスターがソースを作るのをじっと見ている。

 「波がきそうだよ。大きな波。こんな店なんて、すぐにどこか知らないところへ飛ばされてしまう。」マスターは真剣な表情でソースをかき回しながら言った。

 「波

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一人称の波音 9

 次の日、僕は彼女と浜へでかけた。

 彼女はよく焼けた肌に水色のストライプの水着を着て、ぐんぐんと泳いだ。泳ぎには自身のあるほうだったので、始めは彼女を追いかけるように海岸の端と端をストロークしていたのだが、そのうちにあきらめて、彼女がすごいスピードで泳ぐのをテトラポッドの上から見るようになり、そしてそのうちに眠ってしまった。

 目が覚めると、また彼女は僕の隣に座っていた。昨日とまるで同じだ。

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一人称の波音 8

 毎年、夏が来ると、この浜辺に来た。誰だったか忘れてしまったが、クラスの友達が別荘を持っていたのだ。それで、夏の初めの1週間程度、彼の別荘に滞在しながら、毎日海に出てはなにをするでもなくただただ泳ぎを楽しんでいた。高校生だった。昼になると決まっておかみさんのいる浜茶屋に入り浸り、ビールを飲んだ。おかみさんは僕らがまだ未成年であるということを察していたが、ここまでなら大丈夫だろう、というところまでは

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一人称の波音 7

 翌朝、電話のベルで目が覚めた。阿部だった。

 「やっぱり、ここにいたのか。自宅に何度かけてもつながらないんだ。こっちにいるんだから、たまには実家に帰ったほうがいいんじゃないのか?」時計を見ると、まだ8時前だ。多くの動物たちは残り少なくなった夏を惜しむようにその活発な活動に入っているが、どうやら僕はその動物たちの中には含まれていないようだ。

 「海へいかないか?ほら、もう夏も終わりじゃないか。

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