電器屋でお客様がお金を貸してほしいと言った日。(後編)

前編のあらすじ。
ある日のこと、女性のお客様から洗濯機が壊れたので、今日の日替わり商品を、仕事で行けないので、明日買わせてほしいと電話で連絡があり、私は仕方なく上司の了解を得て、今回が特別であることを彼女に伝え、承諾したのだった。
・・・・・・・・・・・

そして、その翌日の夕方、彼女は店にやってきた。

その右手には、小さな女の子の左手が握られていた。たぶん、5歳くらいなんだろう。彼女に似たそのきれいな瞳は、かわいいくらいに人見知りしていた。

「青木さんですね。昨日は本当にすみませんでした」そんなふうに、深々とお辞儀をしている、その彼女の澄み渡る声は、間違いなく昨日のきれいな声の持ち主だった。

「あのう・・・もしかして、上司の人に叱られたりしませんでしたか?こんな無理なお願い事をしてしまって・・・」そんなふうに心配している彼女がとても可笑しく見えた。

「いいえ、大丈夫ですよ。うちの上司は、日頃はあまり役に立たないのですけど、たまに重宝したりするんです」なんて冗談を話すこの自分が、とても不思議に思えた。

そんな気軽な冗談を、私はお客さんに話すなんてことはない。そんな意外な自分を持て余している私に、彼女はくくっと小さく笑っていた。

私たちだけの、小さな時間が流れている。電話で少し話しただけなのに、まるで同じ罪を共有したような、いつしか私たちは”友達感覚”でいた。今思えば、それが小さな間違いだったのかもしれない。

私は彼女に、その洗濯機の使い方を説明しながらも、私は彼女が時折話す、彼女の悩みに、耳を傾けていた。この子供に、友達も父親もいないことや、近くの幼稚園にさえ入れてやれないこと、今は夜までやってる施設に預けていることなど、それはとても”幸せ”と呼ぶには程遠い場所にあるように思えた。

もちろん私には、その彼女のひとつひとつの言葉に、うなずくだけが精一杯の、単なるひとりの店員に過ぎなかった。

「洗濯機は、明日の夕方には、お届けいたしますので」そういうと彼女は「私は留守にしてますが、大家さんに伝えておきますので」そう言って、私にぺこりとまた、お辞儀をした。

お兄ちゃんに、バイバイしなさいといった仕草で、彼女が小さな娘の顔の、前で手を振っている。彼女の娘はとても恥ずかしそうに、私に小さく手を振るとその顔を彼女の胸にうずめた。その風景は、彼女達だけに与えられた決して他人に触れることの出来ない幸せの形のように思えた。

私もバイバイと、私に出来る精一杯の笑顔で手を振った。そんなふうに穏やかな形で、その小さないわく付きの接客は、終わるはずだったのだ。

終わっていいはずだったのだ。

◇◇◇◇◇

それから2週間が過ぎた頃、私の自宅に一本の電話があった。

その日は、私は休みだった。平日のありふれた昼下がりに、私はのんびりと本を読んでいた。そんなときに、その電話は鳴ったのだった。

「おい、青木か?」それは上司の声だった。「休みに電話して悪いのだけどな、一応、お前に知らせておこうと思ってな」

そんな上司の今までなかったような話しぶりに、私はただ事ではないことが、起きているのだと直感した。

「一体、どうしたんです?」

「いやな、2週間ほど前に、洗濯機のお客さんがいたろ。あの日替わり品を明日欲しいって言ってたお客さん」

私はすぐに思い出していた。(あの小さな女の子の、恥ずかしそうな微笑も同じように。)

「あのお客さんがどうしたんです?ちゃんと配達も終わったはずですし・・・まさか、故障か何かで?」

「いや、どうせなら、そのほうがよかった、と言っちゃぁなんだけどな。実はな、お前あてに電話してきたんだ、あの女性のお客さんが」

「えっ?私に?一体、どんな用件で?」

「それがな、お前が今日は休みだって言っても、どうしても連絡が取りたいんだってきかないんだ。それで、”どんな用件なんですか?”って聞いたらな・・・驚いたことに”お金を借りたいんです”って言うんだ」

「えっ!お金を?」

「あぁ、そうだ。この前の洗濯機よりもひどい話だよな。どうしてお金が必要なんですか?って俺が聞いたらな”どうしてもすぐに、新幹線で行かなきゃならない急用が出来たのだけど、運賃を払うだけのお金がない”って言うんだ。それで、この前、親切にしてもらったお前ならお金を貸してもらえるんじゃないかと思って電話したらしいんだ。そんなバカな話があるかってもんだ。俺は怒って彼女に言ったよ。”青木の連絡先は教えません!うちは電器屋であって、金貸し屋じゃありません!ってな」

「それで、彼女はどうしたんです?」

「どうしたも何も、”すみません”ってな、小さな声で電話を切ったよ」

「そうですか・・・」

私の声も、思わず小さくなった。
それを察してか、上司は私にこう話した。

「まぁ、心配するな。それが本当だったにしても、誰か他に金を借りられる友達くらいはいるだろうよ。お前は人がいいからなぁ。それがいい点であり、悪い点だな。ま、気にすんな。くだらないことだ。それにしても悪かったなぁ、休みなのにこんな電話して」

「いいえ、こちらこそ、わざわざ知らせてくれてありがとうございます」

そう言って、私はその電話を切った。
そして、私の6畳間の部屋に、重い沈黙が流れた。

彼女はたぶん、いろんな心当たりのある友達や近所の人にお願いして、懇願して、その挙句の果てに、どうにもならなくなって、最後の最後の候補として、この私が残ったのだろう。

”無理を承知”は彼女はわかっているのだ。非常識なこともわかっているのだ。それでもそれを、しなきゃならない時が、人にはどうしてもあるんだ。

思わず私は、店の配達伝票を見れば、彼女の連絡先がわかると思ったが、その思いを打ち消した。私はひとりの店員に過ぎないのだ。

私は窓の外を眺めた。午後4時の青空は、もうすぐ夕暮れを連れて来そうだった。こんな同じ青空の下で、今、彼女は何を思っているんだろうか?その細い右手には、やはり小さな左手を、今も離さず握っているんだろうか?

その小さなかわいい手が、私にバイバイと手を振っている。うれしそうな彼女の声が、また、私の耳に響いてくる。

私は成す術もなく、
同じ夕暮れを待ってる。

ずっと、ずっと、待っている。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一