クレームとテレビ局の取材。
昔、あるテレビ番組の取材を受けたことがある。結局のところ、いくつかの理由で放送は中止にはなったけれど。(残念。別に深い問題ではなく、ちょっとした調整不足で。)
そのときにクレームについての考えを求められて、私なりにそのときの想いを、こんなふうにメールにて伝えた。
〇〇テレビ〇〇様。お世話になります。
青木詠一です。クレームから感じたこととしては、これは私なりの考えですが接客する側もされる側も、今の世の中を映してか(身近なところでは年金問題とか、大きなところでは地球温暖化とか)互いに心の奥底には深い闇を抱えていて その不安から、本来、心を満たしてくれるべき サービスする側がなんらかの不快を与えることで お客側は裏切られた気持ちで、声を荒げてしまう。
また、逆に店側としては、不景気で人員を削られる中、一所懸命に、これだけのサービスをしていると言うのに、ちょっとしたことでお客は機嫌を損ね、すぐにクレームを言ってくる。どうしてだ?なぜなのだ?と不快に感じる。そういったお互いの”当たり前”が当たり前すぎて、小さな言葉のすれ違いや思い違いを、生んでいるような気がします。 人生は、ままならないものと、誰もが自然と知ることですが 、サービス業においては、サービスやその利便性は、それでも”完璧”であって欲しい願う。
その願いは当たり前にしても、やはり人がすることに100%完璧 はありえない。結局のところ、どんなにあがいても 人と人との間には、クレームがなくなる事はないのです。(ただし、人命に関わる問題は完璧になくさなければなりません。)
ただ、確かにひとつ言えることは、そのクレームによってはじめて”サービス”というものは、進化することが出来る。 逆に言えば、クレームはなくてはならない存在とも言えるのだと私は思います。
・・・それが今の私の「クレーム」に対する思いです。
そのテレビ局はどちらかと言うと、「理不尽な人が多くて、クレームは大変ですよ!」程度の誰もが同情するようなコメントを、どうも私に求めていたような気がする。
でも、私は思うのだけど、クレームは”人の心の問題”であると考えている。人の心の問題を、それこそ問題にしてしまうと、番組としてはキリがなく成り立たなくなってしまうのだろう。
おまけにその「クレーム」が、なくてはならない存在などと言ってしまえば恐らくクレームに泣いている視聴者から反感を買ってしまうのだろう。
何が誰が悪いと言うことでもなく、それぞれのやるべきこととか伝えたい想いは、いくつもの選択肢があって、それはとても難しいことだと言えるものなのかもしれない。
私は今一度、クレームについて思いをめぐらせてみる。
今の私は、接客と言う仕事から少し遠のいてしまい、あの頃の想いと今とでは、温度差があるのかもしれない。けれども、あの想いはまだ、私の中で微熱のようなわずかな温度を覚えている。人の怖さを身にしみている。もちろん、その暖かさも身にしみている。
うまく言葉では伝えられないけど、いろんなすべての出来事は、すべて「わがままな人が悪い」で片付く単純な問題ではなくて、そこに見えない何かが人をそのように導いてしまうような、大きな流れがあるように思う。
そんな川の流れのようなものに、私たちは知らずに流されてしまっているのかもしれない。見えないことに対して人は、(恐らく)とても未熟な幼児だ。本当にメスを入れるべき問題や、大切なものは、たぶん、うまくそこに潜んでいる。
今はまだ、泣くしかなくても、いつかは目を開くときが来る。その闇に慣れるときが来る。ただ、急いでも何かが犠牲になる。
今はその時が来るのを、私はゆっくりと歩みながら、一番星を見つけるみたいに、ただ、待っているのだ。
最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一