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逃れられない運命のようなもの。

「だから、私の太ももを、イヤらしい手つきで触ったのよ!」

それは、突然の出来事だった。

これでもか、というくらいに太った中年のおばさんが、これでもか、というくらい大きな声で、熊のごとく叫んでいた。言われたバイトのA君は、ただ、おどおどするばかりで意味もわからず、立ち尽くしていた。

「な、何かございましたでしょうか?」そう言って、私はすぐに駈け寄ったが、いきなりその中年のおばさんに、足で思いっきり蹴られてしまったのだ。

「いたた、な、何をいきなり・・?」私はそこまでしか言えなかった。あまりの痛さに足を抱え、身動きさえ出来なかったのだ。まったく身に覚えない暴力だ。絶対に何かを言わねばと、私はそのおばさんに向かって、思いっきり厳しく言葉を投げつけてみた。

「いきなり、なんです?わ、私が一体、何をしたって言うんですかっ!」

おばさんは私を見下ろしている。

「あんたが私の太ももを触ったのでしょう!」

そうおばさんは怒鳴りながらも、私の顔をじろじろと見つめた。やがて、間違いに気づいたようで「あ?あんたじゃないわね。余計なところで出てこないでよ。まったく・・・とにかく私はね、さっき、店員のおっさんに、接客のふりしてセクハラをされたのよ!どう責任を取ってくれるのよ!」

そんなバカな・・・一体誰が、そんなことを?

思い当たるような店員はいなかったし、誰も名乗り出る者はいなかった。まさか、Aさんが、それともBさんが、と思わず誰もが容疑者に見えてきた。だいたいこんな太ももを(と言っては失礼だが)、誰が好んで触るだろうか?と。根本的な大きな疑問を、思わずおばさんに質問したくなったが、もちろんそれを言えるはずもなく、それでも、おばさんの勢いも止まることなく最後には、警察がどうの、とまで言い出した。

おばさんは、私達をにらんだまま、ケイタイでどこかに電話をかけはじめた。

「ちょいとあんた、ちょっと店まで来てくれる」

言葉短めにそう言って、おばさんはケイタイを切った。そして、おばさんは、私に向かってこう言ったのだ。

「まったく話にならないからうちのひとに来てもらうよ。あんた、○○組って知ってるよね。うちのだんな、そこの偉い人。まぁ、覚悟しときなよ」

私は(たぶん)顔が真っ青になった。どうしよう・・・落ちつけ、考えろ!考えろ!と心で思うが何も考えられない。逃げたい、逃げたい・・・しかし、どこにももう、逃げられはしない。やがて、深い谷底に落ちてゆくような感覚が、私を襲った。

落ちてゆきながら、やがて、地表に叩きつけられるようなその瞬間に
私の体は大きくバウンドした。

・・・・そこで目が覚めた。

ウソをつくようで心苦しいけど、すべては夢の出来事だったのだ。やけにリアルな夢だった。その凍るような恐ろしさに、夢であったという事実だけが、私の何よりもの救いだった。

・・・夢でよかった・・・心からそう思った。
あまりの出来事にしばらくの間、放心状態になった。

同じ接客業をしている人なら、こんな経験は(聞いたこともないから不確かではあるけれども)たぶん、誰にでもあるのだと思う。

まず、夢の中で起きたそのクレームは、不思議なことに、まったくもって身に覚えのないことがある。過去に同じ経験をしたというのであれば、話はわかるがそうでもない。そのリアルさだけが、余計に恐怖心をあおるばかりだ。

たぶん、記憶のすり替えのようなことが、私の中で起きたのだと思う。それまで私が経験したあらゆるクレームの記憶のパーツが、それぞれプラモデルのように組み立てられ、自ら作り上げてしまったのかもしれない。

それにしても、現実の世界でも大変なのに、夢の中までクレームに恐怖しているなんて(もちろん、根本的な責任は店側にあったとしても)そのお客様の言葉や態度は、知らないうちに、店員の心の奥底まで刻み込まれている。

それは逃れられない運命のようなものなのだろうか?

最近読んだ本の中のこんな記述が、私の心にずっと残っている。

”人はどろぼうに入られても、それで自殺する人は滅多にいない。しかし、人は他人の言葉や態度で、自殺する人はいくらでもいる。”

目に見える損失は、人は何かで代用できても、目に見えない心の傷は、その深さを誰も知り得ない。自分の心でさえもそれは・・・

だから人はもっと今以上に、自分の心を見つめる必要がある。
時として現れる恐い夢は、私達にそんな警告を
教えてくれているのかもしれない。

でも・・・

もしも、数日後になって、同じ出来事が起きたなら
それはまた別の話になるけれど・・・。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一