電器屋でお客様がお金を貸してほしいと言った日。(前編)

随分と、昔の話ではあるけれど、お客様から「お金を貸して欲しい」と、かつて言われたことがある。

もちろん、私たち店員は、お客さんに「もっと、まけてよ」と言われてどうにも仕方なく、安くすることはあるにしても「お金を貸す」なんてことは、もはや、その次元を超えている。

まだ、私が電器売場の店員だった頃の話だ。当時、ホームページ上で書いていたクレーム日記にさえも、この話は書かなかった。いや、書けなかったといったほうが正しいのかもしれない。その理由はよくわからないけれど、書くとその人のことをどこか思い出してしまい、まるでキリがないような気がして・・・。結局は書かなくても、こうして思い出しているわけだけど、心にも日記のようなものが、どこかにあるのかもしれない。

それは売り出し初日の朝だった。その人は、電話で商品の問い合わせをしてきた。その電話を取ったのが、たまたま、この私だった。

「もしもし、すみませんが、お願いがあるのですが・・・」30代くらいの女性だろうか?とてもきれいな声だった。

「はい?どういったことでしょうか?」私はいつものように明るく答える。

「今朝のチラシに載っていた今日の日替わりの洗濯機なんですが・・・
どうしても明日しか店に買いに行けないので、なんとか、明日買えないでしょうか?」

それが彼女の”お願いごと”だった。私は思いがけないその言葉に、驚きというより、少しあきれていた。そんなこと、出来るわけがない。

その日替わり商品は、先着20名様限りで、原価割れの激安特価。日替わり商品に”明日”はない。冷たいようだが、それが多くのお客様を裏切らない信頼につながるのだ。

「申し訳ないのですが、本日限りの特売品ですので、明日のお買い求めは出来かねますが・・・」と私は答える。それは、ごく、当たり前のことで、どうしようもないものだった。それ以前に、電話での予約も出来ない話なのだ。チラシにもわざわざ書いてある。なんて常識のない人なんだろうか?と、そのときの私は思った。

「でも・・・」とその彼女の声が、ほんの少し小さくなる。「でも・・・もちろん、無理は承知の上なのですが、お恥ずかしい話ですが、私は今、あまりお金に余裕がなくて、でも、先日、突然洗濯機が壊れてしまって、もう、かなり古くなったので、修理するより買い換えたいと思うのですが仕事もありますし、子供まだ、小さくて手がかかって・・・とても困っているんです。なんとかお願いできませんでしょうか・・・」

見ず知らずの店員に、そんな事情も話さなければならないほど、彼女は”無理を承知”だったのかもしれない。

でも、それが本当か嘘かは私にはわからない。ただ、経験上から言えば、”安いから”という理由だけで、無理なことを言う人は、嘘でもこんな事情を持ち出さない。たいていは、ダメだとこっちが断ればやれ”他店ではしてもらった!”とか”お宅はサービスが悪い!”とか強引に、そんな無意味な比較を持ち出してくる。”なら、その他店で買えばいいじゃんか!”と若かった私はつい、心で毒づく。だいたいは、そんな調子だ。

でも、彼女のその言葉には、そんな嫌な”欲”は見られなかった。純粋に、生活に必要で、でも、今は、時間も余裕もなくて・・・といった、正当な理由が感じられた。私は少し考えると、小さな望みを握っているかのような素振りで彼女にこう話した。

「それでは上司に相談してみますので、後ほど、こちらからお電話を差し上げます」と私は彼女に言った。「はい、お願いいたします」と、まるで病を医師に願うように彼女の澄み渡る声は、私の心の奥まで響いた。そうしてその電話を切ったのだった。

”変に期待を持たせてしまってよかったのだろうか?”と私は少し思い悔やんだ。上司に話をしてもきっと「お前、そんなの無理に決まってるだろ!はっきりと断れよ!」と叱られるのがオチだと思った。

「今月は売上が悪いからなぁ。ま、しょうがないか・・・」意外にも、あっさりと上司は了解してくれた。少しいい加減なところが、この上司のネックではあったけれどそのネックが、こんなところで役に立つとは。

私は彼女に電話した。

「はい、○○事務所ですが・・・あ、すみません。先ほどの電気屋さんですか?私です。さっき、お願いした者です」

営業スマイルを含んだ声が、少し、ひそひそ声になる。どうやらそこは、彼女の職場だったようだ。

「今日の日替わりの洗濯機の件ですが明日のお買い求めでもいいことになりましたので・・・ただし、”今回だけ”という条件つきですよ。よろしいですか?」なんて・・・。

知らないうちに、私の心は、なぜかうれしく思ったのだろう。どこか小さな親しみを込めて、私はそんなふうに彼女に話した。

「もちろんです!次回なんて絶対ないです!ありえません!誓います!
本当にありがとうございます!」とその喜びは、きっと、そこが職場であることを、つい、忘れてるんだろうなと思えるほどの、彼女の素直な明るさだった。

久しぶりに、私の心に”ありがとうございます”の声がとても優しく響いていた。電話を切った後の私たちはきっと同じ笑顔だったのだろうと思う。

そして、翌日、彼女は来店してきた。
その先の出来事を、僕らは何も知らないままで。

後編へ続く。(次回は5/24夕方6時過ぎの投稿予定です。)

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一