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あの日の過ちと静かな風景と。

休みの日は、のんびりと車を走らせる。

行く先は、はっきりとは決めていない。けれども、通り過ぎる車たちが、やがて少しづつ見えなくなる頃。それは私の好きな風景に近づいた証拠だ。

どこまでも新鮮な緑が広がる田園風景。そこだけ穏やかな風のように、時間もゆっくりと流れてるみたい。まるで何かと約束でもしたかのように。

車を広い道路わきに止める。

カメラを片手に私はその風景の中に入ってゆく。田んぼには誰もいない。風の音がかすかに聞こえるだけ。でも、なぜか寂しくはない。部屋に一人でいる時と、まるで同じことなのに、なぜだろうかとぼんやりと思った。

答えは簡単だった。ここには空がある。風がある。緑がある。私はひとりではなかったんだ。

優しい風の中、私はゆっくりとシャッターを切る。小さな花が微笑みかける。私はレンズを通して花に話しかける。花はちゃんと答えてくれる。言葉なんて使わないで。

「こんにちは」とどこからか声がした。

もちろんそれは花ではなく、おばあさんの声だった。振り返ると陽だまりのような、にこやかな笑顔が少し離れた場所にあった。私も「こんにちは」と言葉を返す。もしかしたら、農作業をするのかな?私がここにいることが、邪魔になるかな?と少しだけ不安になった。

そんな不安が、どこか懐かしく感じられた。あぁ、そうか、これはあの時と同じ不安なんだと思った。

私は小さい頃、よく、ひとりで遊んでいた。いつもぼーっと花や虫を眺めているような子供だった。ある日、トンボを追いかけていて、知らなうちに人んちの畑の中を走っていた私は、「コラー!」と大きな声で叱られた。農作業をしていたおじさんが、真っ赤な顔をして、私に向かって怒っていたのだ。私は初めて顔も名前も知らないような大人の人に大きな声で叱られた。驚いた私はただ、ただ、怖くて、謝りもしないで、思いっ切り走って逃げたのだった。

不安な気持ちになると、時々、あの日のことが思い出される。私のことで、誰かがひどく怒っている。あたりは怖いような夕暮れが近づいている。知らないうちに泥でひどく汚れた靴、そして大人のひどい怒鳴り声。恐ろしくて悲しくて、私は泣きながら家に帰った。

ふと、現実に私は戻る。

「こんにちは」と声を掛けてくれたおばあさんは、すでに農作業を始めていた。「邪魔になりませんか?」と尋ねようかと思ったけれども、それさえも、邪魔をしてしまいそうだったので、私は少し遠く離れて美しい風景を眺めて写真を撮った。おばあさんは、終始にこやかな笑顔で作業をしている。私がここにいることが、自然の一部であるかのように。

「ここにいていいんだ」

私はなぜか、それがうれしくてたまらなかった。

暑い夏も通りすぎた。いつしか広がった薄い雲が秋色に染まってゆく。心ゆくまで写真を撮った私は帰る前に、おばあさんに挨拶をした。「どうもお邪魔しました」と笑顔で小さく声を掛けた。

おばあさんは、やわらかな笑顔だけ返してくれた。

もうすぐ日が暮れてゆく。あの時と同じ夕闇が訪れる。私は車を走らせながら心の中で、あの日のおじさんにそっと謝った。

「あの時はごめんなさい・・・」と。

こんなにも遠い昔のことを、それで許してもらおうなどとは思わないけれども、なぜかあのおじさんが、今も元気に田んぼの中で、にこやかな笑顔でいるような・・・

ふと、そんな気がした。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一