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人生の持ち時間。

残りの人生を、この頃よく考える。幸いにして、体調はどこも悪くなく、いたって健康だ。その点はありがたいのだけれども、それでも人生の折り返し地点をとっくに過ぎて、なんとなくその終わりも見えてきた。

私はこの人生の最後に何がしたいのだろう?そう思ったのが1年ちょっと前だった。そのときに「やりたいことリスト」というものを作っていた。

久しぶりに見てみた。次のように書いていた。

・ブログをまた、始める。
 ⇒これはnoteを始めたので実行できている。
・仕事以外のいろんな人と知り合う。
 ⇒リアルでは全く知り合えていないのでこれは出来ていない。
・一生モノの趣味を持つ。
 ⇒noteのおかげで昔、趣味だった写真をまたするようになった。
・好きな新たな仕事、またはやりたいことを見つける。
 ⇒現在進行中。まだ、未定。

あと、いろいろ書いていたけど、大きくはこのくらいかな?とりあえずは半分くらいは行動に移せてるかなぁと自己分析。総合評価は△だな。

ブログを始めるは◎。このnoteを続けている。これは大きな収穫だと思っている。でも、仕事以外の人と出会うは全くダメだなぁ。(あ、noteではたくさんの友達が出来たとうれしく思ってます。勝手にすみません。)基本的に私はひとりが好きだから、かなりハードルが高いのかもしれない。趣味の写真で何かつながりが出来ればなぁと考えている。

好きな仕事、やりたいことを見つけるは現在進行中。決して今の仕事が嫌だというわけではないけれども、長くサービス業を続けてきたので、それ以外の何か新しいことをしたいと考えている。

正直に言うと、今の食品スーパーの仕事はそれなりに楽しいけれども、仕事にまったく余裕がなく、ストレスはたまり、時間に追われるばかり。人員が足りない中、また、パートさんも高齢化になってきている。飲料や米やビールなど、重いものを、男性アルバイト(こちらも高齢の方だ)と一緒になって補充している。本来やりたいことが、思うようにできなくなりサービスレベルは低下してゆくばかり。それと同時に、上からは叱られて、モチベーションも低下してゆく。残業はできないので、毎日が、まるで戦争のようだ。何とかしなければと思うけど、なかなかうまくいかない。私がいつまでも居続けるよりも、そろそろ若い人とバトンタッチしたほうがいいか、と思ってもみたり・・・

・・・しまった。つい、愚痴と弱音を吐いてしまった。まぁ、いいか。
(私のことだから、結局、定年まで続けるんだろうなぁとどこかで思っているけれども。)

自分の仕事の例えが「戦争のようだ」なんて、やはり間違っているのだろうなぁと思う。ただ、人生の残りの貴重な時間が、無駄に浪費されているような気がして、思わず空を見上げてしまう。

「人生の持ち時間」を私たちは誰も計算することはできないのである。これはまことに面白い人生の落とし穴であり、人間を思い上がらせないようにするための、神の差し金ではないかと思うことさえある。

「納得して死ぬという人間の勤めについて」  曽野綾子

人間を思い上がらせないための「神の差し金」という言葉に、なるほどなぁと思った。人生の持ち時間は誰にもわからない。人はその最後がようやく見えてきたとき、やっと本当に気づくのかもしれない。一番大切なのは、それまで一番大切だった仕事やモノやお金じゃなくて、やっぱり、大切な人といかに自分が生きてきたかを、見つめ合うことだということを。そしてその終わりまで、こうして生き抜いてゆこうという決意だということを。

私はその日まで、その人と手をつないで歩こう。
うれしいね、楽しいね、すばらしいねって、いちいち驚きながら。

そうして人生が終わったとき
次に新しい何かがはじまるのだと
私はどこかで信じている。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一