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嫌われる勇気〜Ver.2〜(違いを認められる世界)

あけましておめでとうございます。

今回は、僕の考えている「違いを認められる世界」のヒントがこの本に秘められていたように感じたので書き下ろしたいと思う。
もしかしたら、嫌な思いをしてしまう人もいるかもしれない。
画一的で考えが甘いし、叩かれるのかもしれない。
けど、自分自身の経験で感じられた事なので素直に伝えたい。

最初に僕のことを述べると、僕には「足にちょっとした違い(障害)」がある。 今回は「障害」という言葉に焦点を当てているが、僕はこれを「違い」と呼んでいる。そして「違い」というものは、他者が存在する限り必ず発生するものである。

 過去の僕はこの「違い」を原因にして、相手がどんなに優しかったり、良くしてくれたとしても、周りの反応や態度に敏感になっていた。相手が何を考えているのか、どう感じているのかを常に察知しようとし、操作しようとしていた。
そんな時にこの言葉が胸に刺さった。

誰の課題なのかを明確に.

 こんなシーンを思い出して欲しい。自分の子供が受験前だけど、全く勉強しない。「親は勉強しなさい」と言い続けるが、子供は一向に態度が変わらない。これはよく見るシーンだと思う。もし自分自身が親の立場であることを考えて欲しい。子供に対して、「勉強をしなさい」という行為は相手の芝生、つまり相手の課題に踏み込んでいる事がお分かりだろうか?なぜなら、勉強するかしないかは子供の課題であるからだ。では、親には何が出来るだろうか?それはただ一つだ。子供を信頼する事だ。信頼する事だけが、親の課題なのである。

 アドラーによると、人が相手を信頼するかしないかはその人の課題であり、相手がその人のことをどう思うか、どう行動するかは相手の課題なのだ。相手の課題を操作しようとしても無効力で、その操作が悩みを生む。これがアドラーのいう「課題の分離」の考え方だ。この概念は私の頭の世界をシンプルにし、自分の課題に集中させた。つまり、相手の人生を満たすのではなく、自分がどう言う姿や像でありたいかを追求する事が出来るきっかけを与えてくれたのだ。

完全なる障害(違い)のない社会は出来い気がして。

「障害は環境にある」

と言う言葉をある人から頂いた時、全くその通りだと感じた。しかし同時に、「違い」についての自己受容が出来ない限りその人にとってとても生きづらい環境になってしまう。(障害に対して、環境の整備は続けていくべき。それ+αとして考えて頂きたい。)例えば、相手が私に気を遣ったり、その「違い」に対して無意識状態な状態だったとしよう。しかし相手の課題に踏み込もうとした瞬間、不自由な生き方になってしまう。つまり、相手の考えを操作するのではなく、「違い」について自己受容した上で「課題の分離」をしない限り、「障害」という言葉はなくならない。もっとシンプルにいうならば、周りから見ると「障害」に見えるものさへ自分自身の個性と捉えられた時に初めて「障害のない世界」に対する第一歩が生まれる。

 一人一人が「課題の分離」を行う事が出来た先に、「違いを認められる社会」というものに対して光が見えるのではないか。と僕は感じている。そして僕自身、この本を機に他者の課題に踏み込むことを諦め、自分自身の課題にコミットするように心掛けて居る。そのことによって、自己幸福感を自己で操作する事ができ、社会に対してポジティブになれて居るように感じるのだ。
最後いう。
自分の人生を満たすのは自分だけなのだ。

ありがとうございました!
2020年も宜しくお願い致します!


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